| 人ひとりひとりに多種多様な趣味・嗜好 たわいもない小さな好みの話の中に 心棒となる哲学や思想が息づいていることも… どんなところがスキなのかキライなのか? お話いただいた方の心の内が、ほのかに感じられる 息抜きエッセイをお送りします。 |
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マオマオネット インタビュー第8弾 | |
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ずっと変わらずに好きなモノは、書と器ですね。陶器では尾形光琳の弟の、乾山(1663〜1743)がとくに好きなんです。乾山の描く世界が可愛らしいんだけど、それを焼き物という日常に使えるものに展開しているのがおもしろいと思う。 陶芸は、ある用途をもった形にそって、模様がつけられるでしょ。絵を描くときも、紙に奔放に描きなぐって終わり、じゃなく、“モノが完成する”ことを踏まえながら、装飾を“あしらっていく”。こうした工芸の考え方に、デザインの精神性や原点をみる気がするんです。 書では、良寛(1758〜1831)が好きです。琳派の流れのなかでは、本阿弥光悦(1558〜1637)もいい。でも、光悦みたいな男らしい文字は自分には書けないけど(笑) 書の世界を知る人にとっては当たり前すぎる存在なんですが、王道が好きな僕は、この2人が最高にいいなぁと思ってしまいます。 僕も、書を書いていこうと思ってるんですが、今の時代を考えると、古来のスタイルとは少し違ったものになる。かけ離れたように感じるかもしれないけれど、僕にとっての書は、タイトルのデザインだったり、タイポグラフィなんですよ。 “デザイン”というと、活字や写植、フォントという、どこか“スクエアなもの”を使って仕上げるという印象を受けがちですよね。でも、それは所詮、最終の仕上がりにすぎないこと。美しい草書がほどこされいる書画には、カタチと空間、装飾、互いの関係を生かしながら、ひとつの物になろうとする、完成へ向かってこうとする姿勢がある。こうした考え方は、日本古来の工芸を踏まえると、非常にオーソドックスな考え方なんだけど、これこそ、デザインの精神なんだと思うんですよ。 昨年末、京都を訪れる機会があって、久しぶりにさまざまな日本美術に触れてきました。自分の創作の原点を、いろいろ再確認できた貴重な旅でしたね。「これもある、あれもある」という感じで、「やることがいっぱいあるゾ!」みたいな思いにかられました(笑) 若い頃は、なにをやっても“日本的”と言われることにジレンマを感じることもあったけど、ずっとひきずってきた琳派の流れを迷わず進めばいいんだって、あらためて思います。 最近、おもしろいことに、長いこと惹かれてきた琳派の世界でも、微妙にその矛先が変わってきているんですよ。歳なんでしょうか…(笑) 乾山の器に強く魅せられていたときは、やはり、どちらかというとカタチより“絵”そのものにだったかもしれません。でも、この頃は、絵付けのないカタチだけの世界に、不思議と心奪われているんです。 光悦の晩年の仕事で、絵付けされていないお茶碗の展示があったんですが、本当に素晴らしかったんですよ。手びねりの大振りな茶碗が、ポッと置いてあるだけなのに、空間全体が違っている。そこにある“宇宙”を感じちゃいました(笑) そうしたものたちは、どこか、つくったという感じがしないんですよ。人間技を越えてしまっているんでしょうか。つくっているのに、つくってない、自然にまかせて存在してる。素の姿は、まるで無造作なのに、なにかをつくって明確にしてみせている…、なぁんて問答のようになってしまったね(笑) でも、自分も、そうありたいって深く思います。チープなものはいらない、本物でありたいってね。 |
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自分は“熱血漢”なんだなって、感じるんですよ。“頑固オヤジ”でもあるのかな(笑) 貸したものが返ってこないとか、ある決定がきちんとした手順をふまれていないとか、理にかなっていないことが、けっこう嫌い。それに、地球規模で大変なことになってるってときに、平気でゴミをどこにでもすてちゃうとか、そんな非常識な人を見ると呆れちゃうんですよ、まったく。 職業柄、若い学生たちと接する機会が多いんだけど、がんばれるのにがんばらない、とか、損得ばかりを勘定して行動を起こさない、みたいな姿をみると、ガッカリしてしまうんだな。昔は、人に何かを言うなんてことしなかったけど、最近は、大きい声を出して「コラァ!」って叱るようにしてますね。 なんだか世の中が、経済性ばかり尊重する傾向に流れてしまって、テレビでもなんでも、若者中心の商業主義が幅をきかせているでしょう? そんな支配のもとでは、まともにモノを考えようとすると、煙たがられるかもしれませんけど。でも、こんな時世だからこそ、深くものを考えてきた中年層や老年層が、存在を示していくときなんじゃないかな、と思うんです。 デザイナーには、“世の中をよくしていこう!”という大義名分があるんです。ですから、学校では、その“理想”を教えます。なのに、学生たちが社会に出ていくと、背景にある小さな言い分に従わざるをえなくって、売れ線になびいていってしまう。そんな小さなセクトに固まってしまったような現状を見ていると、デザイナーを育てる側にいる僕も、イラ立ちをおぼえます。 でも、クリエイティブな発想は、本気でやろうと思えばできるんですよ。規格から外れたモノづくりを考えようとすると、お金はかかってしまうかもしれないけど、奇抜な目新しい装飾だけが“デザイン”じゃないんだから。“シンプルな美”を追求するために、きちんと根っこから考えたプロセスをたどる、そうした時間にお金をかけるってことが大切なんだと思います。利潤追求とかいって、便利な仕組みをつくったようで、世の中、汚いものであふれていて、まったく腹が立ちますよ(笑) もっと、みんな、ひとりひとりのなかに、“美のスタンダード”が目覚めたらいいのに、って思います。テレビで宣伝してたからとか、流行っているからとか、そんな判断じゃダメなんだ! って言いたいです。 ということで、世の中にハビコる“迎合主義がキライ”ってことになるでしょうか? そんな風潮にのって、騒がれている若造がいたら、「オマエ、まだまだ青いゾ!」って言える頑固オヤジでいなくちゃ、って思うんです(笑) |
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今にも増して、自分の作品づくりに没頭していると思います。イメージとしては“日本の絵描き”という意識が強いかな。熊谷守一(1880〜1977)みたいに、絵も描くし書もたしなむ、というスタイルがいい。無理をせずに、呼吸するように絵を描いて、別な時間に書を書いたり、陶芸を楽しんだり。それから、庭いじりをしたり…、そんな仙人みたいな暮らしに憧れますね。次にひらく個展は、おそらく2002年になると思いますが、そんな自然な気持で描きためた作品で、構成できたらいいなと思います。(2001年3月) |
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Hiroki Taniguchi's Works
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