UP DATE:2002.02.01
 
さまざまな世界で活躍するクリエーターに、昔の自分、今の自分、そしてこれからの自分のお話を伺います。子どもの頃はどんなだった? どうして今の仕事を選んだの? これからどんなことするの? いろいろな方向からお話を聞くミニ自叙伝的インタビューです。

マオマオネット インタビュー第17弾
イラストレーター
ハギハラトシサト
 
Toshisato Hagihara

夢にでてきたような風景、どこか知っているような風景、そんな独特の空気感の在る作風で知られる画家、イラストレーターのハギハラ トシサトさんにインタビュー。30数年にわたる、彼の絵にまつわる歴史をいろいろ話していただきました。マオマオネット上でも、ハギハラさん連載コラムが好評掲載中です!

ハギハラさんの連載コラム「ハギハラトシサトのクーダラダラ」はこちら>>


自分で自分のやっていることを説明するとき、なんとおっしゃいますか?
絵を描いてる人、絵をつくっている人、でしょうか。依頼があって描く場合、自発的に描く場合、いろいろな場合がありますよね。イラストレーターというと、前者になるんだろうけど。僕の場合、「暇なときなにをしてますか?」と訊かれると、そのときもやっぱりずっと個人的に自発的に絵を描いてるんです。ずっと描いてるんです。音楽も好きで、たまに仲間とノイズのようなものをだしたりして遊んではいますが、やっぱりその前に絵をかいてしまいます。音楽は、聞き手としての方が、楽しいですかね。アーティスト?といえばそうなりますが、「絵をつくってる人」というのが、一番近いんだなと思います。

子どもの頃から絵が好きでしたか?
絵は大好きだったんです。美術だとかそういうものでなく、落書き、これがいちばん好きでした。その当時描いていた絵は、訳の分からない絵で、よく子供が描くような漫画キャラクターは描かなかった。とても抽象的なものでしたね。その後、親類のすすめもあり、高校2年生くらいから絵を習うんです。それが楽しくて楽しくて、どんどんのめり込みました。それまではなんにも興味をもたない、なんにもしたくない、テレビばっかりみてるような普通の子。いわゆる三無主義。でもその後は、絵をやることにすごく楽しみを見つけたようでした。ただ、絵を描いてお金になるという職業があることは、全然知りませんでした。そして美大を志すのですが、漠然と、学校の美術の先生にでもなれればなあと考えていましたね。

その後、美大受験はどうなりましたか?
結局受験は、失敗。絵ならいくらでも描いていたいけど、受験勉強は僕には向かなかった。一浪後、専門学校に入ろうと決心し、関西の専門学校のパンフレットを集めました。大阪デザイナー専門学校のパンフレットに載っていた学生のデッサンがとびぬけてうまかったという理由で、そこに入学することにしました。

どんな学生生活でしたか?
専門学校へ行って、はじめて絵に興味のある人ばかりがまわりにいて嬉しかったです。学校へ行くことが、初めて楽しく感じました。高校では、まわりに絵のわかる友達などいませんでしたから。といっても、僕もいろいろ知っている訳ではありませんでした。一緒に絵を習っていた友人の家で、はじめてPOP ARTの作品集とかを見て、もうびっくりした。あまりにショックでした。僕の知ってたのは、ゴッホ、ピカソ、ダリくらいでしたから。僕が育ったのは奈良ですが、彫刻といえば仏像、絵画といいえば仏画でしたから。

どうして、イラストというか、絵をかいて仕事になるということを知るのですか?
僕が、絵を描くという職業を知ったのは、普通の人よりずっと遅かったんですよ。専門学校に入ってからですから。学校でも、デッサン部というクラブに入りました。とにかく闇雲にやってました。そのクラブ活動で友人もでき、お酒を覚えたのもこのクラブ活動のおかげのような気がします。顧問の先生も面白い先生で、学祭に自分のいきつけのゲイバーのママを連れてきたりとか、とにかくはちゃめちゃでした。その先生には、いろいろお世話になりました。2年目の専攻を決める時に、「おまえは、イラストだな」といわれるんです。僕は、イラストというものも何かよくわからなかったんですが、その専攻に進むことになるのです。まあ、専攻のためとかじゃなく、自分の好きなことをやってましたから、結局版画やコラージュをたくさんつくり、卒業制作はそのコラージュを版画にしました。

そして卒業ですね?
卒業後、何もすることがない。たとえば、就職してデザイナー見習いになっても、忙しすぎて絵をつくる時間もないだろうし。そんなとき、例の顧問の先生に相談するんです。「やることないんです。デッサンの授業だけ受けさせてください。」と。そんなこんなで、授業を受ける学生ではなく、助手になったんですね。その先生曰く、偶数は嫌いだから、2年とか4年は契約できない。1年か3年なら契約してやると言われ、3年間助手をやることになるのです。お金も少しもらえるので、ありがたいし、まあプロの学生みたいなものですね。そのときは、デッサンをしたり、なんか作品だけはいっぱいつくってましたね。コンクリートや鉄に絵を描いたり、とにかくいろいろなことをしていました。その頃に、ダダやシュールレアリズム、ロシア構成主義の事など、いろいろなアートのことを知りました。影響もされました。衝撃も受けました。そしてまた、自分の絵をつくり続けていました。

最初にいわゆる仕事として絵を描いたのはいつ頃でしょう?
そんなとき、いろいろな出会いもありました。その頃好きな雑誌に「スーパーアートゴクウ」というサブカル系の雑誌がありました。その雑誌で絵を描いてる、さっきとは別の先生が主宰する演劇の集団に入る訳です。その劇団の告知をどこかに載っけてもらおうということで、当時のカルト雑誌「ROCK MAGAZINE」を訪ねるんです。そのときついでに持っていった作品が、編集長の阿木譲さんの眼にとまり「ROCK MAGZINE」の表紙の絵を任されることになるんです。なんか即決でしたね。訳もわからないうちに。作品をファイルに入れていた訳でもないし、もうバーッといっぱい持っていっただけなんです。そのときはじめて、「絵を描いて、人に喜ばれる」という経験をしたわけで、すごくうれしかったですね。そして阿木さんの勧めもあり、自分でもNEW PAINTINGのイベントや展覧会のようなものをやったりするようになりました。そうこうしてるうちに助手の契約期間の3年が経ってしっまたんです。

助手をやめなければならない時ですね?
それで東京に行くことに決めました。24才の時です。特に目的があったわけじゃないんです。だからとりあえずバイト生活ですね。日払いか、週払いの夜のバイトばっかり、そのときの食生活といったら、ユンケルとモカだけで生きていたようなものです。とにかくどこかに作品を見せにいこうと思い、雑誌「BRUTUS」に行きました。そこへも例によってバーッといっぱい持っていったんです。それからちょこちょことイラストレーターの仕事ができるようになりました。だんだんバイトも少なくてよくなっていきました。さすがに日雇いより、絵の仕事の方がいいですからね。

まあ相変わらずそのあいだも、作品だけはいっぱいつくっていました。そこでそのころのパルコがやっていた「日本グラフィック大賞」に応募をするわけです。奨励賞や企業協賛賞などをもらって、10回目(1989)で大賞を受賞しました。ぼくの場合、とにかく発表するともなく作品をつくり続けているので、やっているうちにだんだん変化していき、同じスタイルに飽きるというよりかは、描けば描くほど課題やアイデアが見つかってそれをこなしてるウチにスタイルが変化していく感じでした。ちょうど大賞を受賞したときは、いままで描いてきた矩形に魅力を感じられなくなっていた時で、新しいスタイルに移り変わる節目のような時に大賞を取ったようなかたちになりました。

その時代、日本グラフィック大賞といえば、日比野克彦さん、谷口広樹さんなどを輩出した、業界内でもかなりスターを生み出した賞でしたよね! しかもハギハラさんが、受賞したのは、ちょうど世の中もバブル時代。受賞と共に生活は変わりましたか?
いや、ところが、ぜんぜん。今思うと、受賞したとき、審査員や業界の人に作品を見せにいけばよかったんでしょうが。なんかそのときは、そんなことも考えず、やっぱり絵をまたつくり続けていたんです。基本的に出不精でして、パーティーにもあまりいかないし、とにかく相変わらず以前と変わらず、ずっと絵を描いていましたね。

そのころは、どんな作品をつくっていたんですか?
たとえば『アートワークス』(注1)という本の仕事で、150作品の絵を描くという企画がありました。『アートワークス』は、150部限定の手作りの本というか作品集でして、いろいろな作家のオリジナル作品の現物が梱包されているという、大変レアーな雑誌でした。そのときは、下書きもなにもなく、基本的には、やみくもに即興的に絵を描かなければいけませんでしたね。じっくり考えていると、短期間にそんなたくさんの作品をつくることはできないので、できるだけ デタラメに早く描くことにしました。これは良い経験になりました。

僕の場合、風景や人物その他なんでも、描くものはすべて空想の風景や人なんです。特に風景の場合、よく「行ったことがある場所を描くのですか?」とか、「写真かなにかモチーフがあるのですか?」と聞かれますけど、全部空想なんです。下書きもなく、何となく描いていくと、風景ができあがっていくのです。そして作品ができあがってから、またその作品が新しい物語を産んだりするんです。そんな面白さが、ぼくが絵をつくり続けている所以のような気がします。

その後ずっとやっぱり描き続けることになるんですね。最近では、コンピュータを使った作品もありますが、手で描くのとなにか違いはありますか?
専門学校の助手をしていることきに、学校にコンピュータが入りました。そのときの機能はまだまだでしたが、すごく興味をもっていました。学校を辞めてからは、バイト生活をしてたくらいですから、もちろん買うことはできず、知り合いの事務所で遊ばさせてもらってました。今は、もちろん自分のコンピュータを手に入れましたが、コンピュータで描くと、よく「冷たい印象」とかいう人もいますよね。でも僕にとっては、絵の具で描いているのと同じです。ただ、レイヤーがあったり、さまざまなことが試しては消せるという部分では、コンピュータの方がずるいなあと思ったりしますけど(笑)。例によって、コンピュータに描くことにもはまりました、ずっと描き続けました。モニタ上のキャンパスで。

最後にハギハラさんにこれからのことを聞こうとして、やめることにした。たぶんこれから先も、彼はどんなことがあっても絵を描き続けるだろうから。たぶん彼のこれからも、インタビュー中に発した一言に集約されるだろう。
「画家だからとか、イラストレーターだから、こうせねばならないということはない。ただ僕は、絵をつくる人で、一生絵を描き続けるんだろう」

「アートワークス」
毎号20-30人ぐらいのアーティストのオリジナル作品をファイルした、限定150部 の手作りの雑誌です。1985年から6〜7年間、月刊で発行されました(最後の1〜2年は季刊でボックス形態になりました)。定価¥8000円。国内、海外の主要 美術館に毎号45部ほどが寄贈され、MOMA ほか3美術館で永久保存されています。 無名、有名を問わずイラストレーター、写真家、作家、ミュージシャンなど300人くらいの人たちが参加しました。参加陣は、マオマオネットでもおなじみの豊浦正明、谷口広樹、伊藤桂司をはじめ沼田元気、井口真吾、日比野克彦、黒田征太郎、中ザワヒデキ、湯村輝彦、荒木経惟、篠原勝之、林海象、鈴木慶一、ナンシー関、エスケン、寺門孝之、かの香織、上田みゆき、高田理香、ムラカミヤスヒロ、花代、中村幸子、上野宏介、太田螢一、東泉一郎、谷口シロウ、真鍋太郎、秋山具義、青木克憲(敬称略)などなど。年に一度行われた『アートワークス展』にはオノヨーコ(敬称略)や岡本太郎(敬称略)も参加していました。 (余談ですが編集長をやっていたのが現在ハギハラの妻の上村悦子でした。)

取材・文/佐藤理

Toshisato Hagihara's Work

1982
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1987
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1988
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1991
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フリーペーパーmao2 vol.04[カルタ]ページは こちら



○ハギハラ トシサト Toshisato Hagihara

2000年あたりからドットを使った作品を作っている。その他に「ソラとランドスケープ」や「TWONESS」「SPEAKERS」「FANCY」のシリーズも作り続けている。こういった作品が複合的に絡み合ったインスタレーションも行っている。1960年 奈良県生まれ。大阪デザイナー専門学校卒業。[個展]『瞳の彼方から』(89,90)『FANCY』(91) 『鈴木清順作 小説「どうでもいいじゃないか」挿画展』(95)『BAD GOODIES』(97) [発表歴]第五回現代版画コンクール展入選(84)第八回日本グラフィック展-協賛企業賞(87) 第九回日本グラフィック展-奨励賞(88) 第十回日本グラフィック展-大賞(89)など。

個展
1989年,1989年  『瞳の彼方から』
1991年 『FANCY』
1995年 『小説「どうでもいいじゃないか」(鈴木清順作)挿画展』/雑誌
1997年 『BAD GOODIES』

グループ展
1983年 PICTUR ESQUE(1983 )
1983年 WHITE PICNIC ON PAINTING(1983 )
1983年 ART ART '83 1986 ART WORKS展(1986)
1987年 ART WORKS(R.I.P)展(1987)
1990年 ART WORKS(GOOD)展(1990)
1995年 DEAD END STREET(Morphe' 95)
1998年 トポロジカルな皮膜(MMACinTokyo) その他

主な仕事
ブルータスに掲載されていた鈴木清順の小説「どうでもいいじゃないか」に挿画を提供したり、風景の絵ばかり集めたグリーティングブック「夢をかたちにしてください」(パルコ出版)や佐野元春「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」、尾崎豊作品集「オルゴール仕掛けのファンタジー」のレコードジャケットのイラストなどがある。



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