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| さまざまな世界で活躍するクリエーターに、昔の自分、今の自分、そしてこれからの自分のお話を伺います。子どもの頃はどんなだった? どうして今の仕事を選んだの? これからどんなことするの? いろいろな方向からお話を聞くミニ自叙伝的インタビューです。 |
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マオマオネット インタビュー第21弾 | |
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小さい頃はどんな子どもでしたか?
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| 一般的なオタクの人が幼少期に迎えるであろう子ども時代でしたね。人見知りで、成績も悪く、家で姉とマンガを読んだり書いたりするような、空想癖の強い子供(笑)。10才くらいまで自転車にも乗れなかった。親が社長をやってたので、ぼくは跡取りといわれてて、典型的なボンボンな訳ですよ。体も弱く。ね、典型的でしょう? 自転車に乗れなかったのも、危ないから乗るなっていわれたせいです。だからいまでも自転車に乗れない大人(笑)。 「つなし」って言葉知ってます? 子どもの年齢は一つから始まって、七つ八つ九つときて、10才になってやっと「十(とお)」と呼んで「つ」がとれる。それが「つなし」。子どもの年齢で「つ」がつかなくなるときまでは、病気をしやすかったりとか、体がまだ安定しないっていうんですよ。まあ、10才過ぎると、自我の確立や性格の形成ができてくる頃なんでしょう。で、ぼくも「つなし」の10才になったら、なんかちょっとイケてる感じになりたいなあなんて思ってた。それが実際、10才になったら家でこつこつ描いていた絵が、先生に褒められて、賞をとったりして、クラスのみんなにも「いいねいいね」なんていわれて変わってきはじめた。「つなし」になって変わった。 |
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初めての音楽体験はなんでしたか?
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その頃に友達とドリフターズの公演を見にいったんですよ。いや、外国のドリフターズじゃなくて、あの「8時だよ!全員集合」の日本のドリフですよ(笑)。演奏とコントのライブだったの。その頃もちろん毎週テレビで「全員集合」を見てて大好きだった訳ですけど。そのときに、例の「オース!」とか呼びかけられると、会場のみんなも「いかりやー!」て応えるじゃないですか。ぼくも興奮して「いかりやー!」って叫んで、思わず持っていたお菓子のカールの袋をね、バーンと破いちゃったの。友達の頭なんかにカールがぶちまかれてあたりめちゃくちゃになっちゃった。その「いかりやー!」って叫んで、心が熱くなったのが、ぼくの最初のロック衝動だった。 自分でも「なんだろう、この興奮は?」って思った。自己解放っていうか、もちろん10才の小学生が、セックスアンドロックンロールなんてやってたわけじゃないけど、10才にしてロックを知ったていうか。あのとき、興奮して会場にカールがバーンと散らばった。子ども的には大ショックで、とんでもない「非日常」だった。もちろん家ではそんなことやったら怒られるよね。それがあの場ではみんなでゲラゲラ笑ってて、そこに爆音でドリフがかかってて、会場の全員が「加藤ー!」「いかりやー!」「ちゅうー!」とか叫んでる状態。まさにトランス。ずっとあとになってロックを聴いたときに、「ああ、あのときのこれはロックと同じ体験だったんだな」って思った。 それからはドリフのレコードばっかり聞くようになった。そして次第に、3つ上の姉が聞いていたロックとかポップのシングルを聴くようになっていく。はっぴいえんどの「さよならアメリカ」のシングルなんかも姉が持っていて聞いてた。そのシングルを、子どもだから面白がってレコードプレーヤを手動式でかけたりしてね。33回転、45回転、まだ78回転がついてた頃だから、回転数変えて聴いたり、リバースしたりして面白がってた。それがいまの宅録の一歩につながるのかな。「ああ、おもしろいなあ」と思ってた。 家にその頃ソニーのカセットのテレコがあったんですよ。10才の頃にそれではじめて自分の声を録音したのかな。それも面白かった。こうしていまの自分のノリがでてくるっていうか、音楽っておもしろいなあと思った。「つなし」の10才を境にして、まさに音楽と笑いとロックを知った訳です。 |
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子どもの頃って、野球をするとか、スポーツに向かうと思うんですが、そういう傾向はなかったんでしょうか?
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| 野球はね、これは大きな問題があってね。普通野球をやりにいこうとなると、みんな自転車でグラウンドまで行くでしょ? ぼくは先ほどいったとおり、自転車が乗れなかったわけです。最初はぼくも10才まで三輪車に乗ってたのね。ほんとに足つきの小型自転車なんかじゃなくて、ふつうの子ども用の三輪車。それでも、ものすごい足こぎをして、その自転車たちに追いついていくんだ。それが、ある時期から、自転車の友達がどんどん遠くなっていく。彼らはもう、ぼくの足こぎ三輪車ではとうてい追いつかないスピードになっている。先を走る自転車がどんどん遠くなっていって、ぼくはそこでぴたりと止まっちゃった。もうぼくは彼らに追いつけない。そこで家に戻る。そして一人遊びの世界に戻っていった。 あのときにみんなといっしょに野球をやってれば、いまごろは音楽の世界に入ってなくて、野球をやって、そしてふつうのサラリーマンになってたかもしれない。ぼくはすごく彼らに追いつきたかったんだよ。でも追いつけなかった。 |
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そのときは、音楽家を目指すとは考えていなかったんでしょうか?
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その頃ぼくは跡取り息子だったからね。大学も理系だった。それに家は音楽教育なんてほとんど薄かった。音楽をひとりで聞いていただけ。 当時は中学でサイモンとガーファンクルの曲が流行っててギターが人気だった。でもぼくは、楽器屋でマンドリンを見かけて、「なんかかっこいいなあ」って思って、ジャンボマンドリンを衝動買いしちゃった。ギターも弾けないのにマンドリンを買って弾けるわけないじゃないですか。それをやるわけです。サイモンとガーファンクルの曲にはもちろんマンドリンのパートなんて入ってないから、勝手に自分でパート作って弾くんだけど、やっぱり楽しくないの(笑)。でもサイモンは弾きたい。で、マンドリンは放っておいて、ギターを買っちゃった。そしてこのマンドリンは、実にぼくがワールドスタンダードをやるまで、押入で眠ることになるんですよ。 |
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その頃聴いていた音楽はなんですか?
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| その当時は、70年代のメインのフォーク直球って頃ですね。でも日本のフォークとかはその頃はあまり好きじゃなかった。あまりにも大人すぎて。だからフォークでも、NSPとかあのねのねとか、深夜放送で流れるタイプのものが好きだったかな。アメリカのシンガーソングライター、ディランやバンドなんかは普通に好きだったけど。だから中学時代は、単に深夜放送を毎日聞いて、レコードを買って、ロックは普通のツェッペリンとかパープルとか聴いて、『ミュージックライフ』と『音楽専科』と『ミュージックマガジン』と『宝島』を読んでいる。そんなふつうの音楽少年だった。 |
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バンドを始めたのはいつ頃ですか?
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高校になったらバンドを組むようになるわけだけど、ぼくはドラムのパートを選んだ。リンゴ・スターが好きだったしね。1970年にビートルズが解散したときが、ぼくがビートルズを好きになったときだった。だから一番最初に好きになった曲が『レット・イット・ビー』なの。このシングルのB面は『ユー・ノウ・マイネーム』。すごくヘンテコリンな曲だった。コラージュみたいな感じのね。でも聴くものがないから、毎日そのA面B面を繰り返し聞き続けた。聴いているうちに、両方ともすごく好きになっちゃった。そのへんから、モンドっていうか、変わったものが好きな傾向になっちゃうんだけどね。 それで、ビートルズはとってもいいものだってことがわかって、彼らのオリジナルアルバムとソロアルバムを数えてみた。ベストアルバムは嫌いなので対象外ね。それでも買わなきゃいけない対象アイテムは、30枚くらいあった。当時、月に1枚くらいレコードを買うとすると、年に12枚しか買えない。お年玉いれても14〜15枚かな? それで、ぼくは中学の3年間をかけてビートルズだけを聴くことにしよう、と決心した。 他にも聴きたい音楽はいっぱいあったけど、それは友達に借りることにした。自分ではビートルズとソロアルバムだけを買って、それだけをずーっと聴くことに専念した。でも、そこに入っている情報量ってものすごく濃密なんだ。 『レボリューションNo.9』なんて曲でさえ、何度も何度も聴くのよ。最後に「good by」なんていってる、編集の感覚まで聞き込む。それからジョージ・ハリスンを聴くようになると、『オール・シングス・マスト・パス』なんかでフィル・スペクターを知るようになる。『リビング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』を聴けば、ジェシー・エド・デイビスっていうシブいスワンプのギターの人がいる。そしてザ・バンドやデレク・アンド・ドミノスとの関係とか、どんどん知って勉強していくことになるのね。ぼくはおかげでミュージシャン・ツリーを誰よりもうまく書けるようになった。そうやって学習したことが、いまの自分のベーシック。ビートルズを聴いていたんだけど、そこに付随する音楽シーンすべてひっくるめて、自分のベーシックになってる。 |
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ビートルズ的音楽的素養ができあがって、その後、その他にはなにを聴いてましたか?
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もうそこで基本ベーシックができた態勢で、高校になってバンドを始める訳だ。 もういろんな音楽が自分に入ってる状態でね。17のときにはもうジョアン・ジルベルト聴いてたの。バラッズを聴いて、ああいいなあとか。それからソフト・アンド・メローのムーブメントがきて、ジャズとかも聴くようになった。キース・ジャレットの『ケルン・コンサルト』も好きになっていく。高3の頃には、もうすっかりノンジャンルな状態になっていった。で、準備万端整った状態で東京へ上京。 |
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高校のバンド活動はなにをやってたんですか?
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| ELP、ロキシー・ミュージック、レッド・ツェッペリンにバッド・カンパニーといった、当時の『ミュージック・ライフ』って雑誌を1ページずつめくっていくと出てくるグループをすべてやってた、みたいなバンド(笑)。それにドラマーは恒常的に不足していたので、常にいくつものバンドを掛け持ちしていた。いまでもそうだけど(笑)。ロックもやるし、フォークも叩かないといけないっていう。そんな感じで思春期を終わって、東京に来る訳です。 |
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東京での大学生活はどんな感じでしたか?
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上京してすぐ、レコードショップのパイド・パイパー・ハウスに行く。それから、音楽評論家の長門芳郎、中川五郎、北中正和、小倉エージ、なんていう音楽業界のフィクサーを知っていく。音楽評論家の名前なんてすべて知ってましたよ。だってライナーノーツなんて穴があくほど読んでたから。 ぼくは、聴くのが高じて音楽やってるわけ。だからただの音楽ファン。いまも聴くのが好きだし。その頃はクリエイティブとか作曲をやろうなんて考えてなかった。10才のときにドリフを見て興奮に陥った、あのトランス状態に少しでも自分を浸していたかったっていうのがすべてだった。 大学は日大の理工にいたんだけど、武蔵美に友達がいて、なぜだか武蔵美の軽音楽の副部長になっちゃった。全然関係ないのに。そこでも5つくらいバンドをやってて、西荻窪に住んでいて、福生にともだちがいて、もう中央線沿線のロック大通りを実体験していた。音楽と友達がいて、それが楽しかった。そのときに聴いたり、やったりしたバイブレーションをいまでも憶えていて。いまでもそれをやっているような感覚。いまもそのときと、たいしてやってることは変わらない気がする。まだそのときは作曲はやってなかったけど、ただプレイすることがほんとうに楽しかった。 |
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そんな中で、自分で音楽を作り始めようとしたきっかけはなんですか?
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| その頃、カセットの「デンスケ」を買って、どこにでも持って歩いてた。ロックコンサート会場にも持っていった、いわゆる隠し撮りだけどね。 そして時代が、オールドロックからニューウェーブ、テクノに変わっていく頃だった。スペシャルズやディーボが出てきて、「ああ、音楽が変わっていくな」って感じた時代。 1980年を境に、パンク・ニューウェーブに時代が変わっていった。そんな音楽を聴いていると、作曲できないとか演奏がへただって思ってた人が、そういう人でもやってもいいんじゃないかって思い始めるのね。だってヘタな音楽がいっぱいあふれてるんだもの(笑)。レジデンツとか、音も悪いしヘンテコ。でもすごく面白い。それで「あれ?やってもいいのかな」って思いはじめて、デンスケに遊びで録音し始めたのが最初の一歩といえば一歩。 でも本当のスタート地点は、大学の終わりぎわ、1982年にワールドスタンダードをやろうってことになったとき。その頃小津安二郎が好きで、日本の古い邦画を見るようになっていて、そういうのが音楽でできないかなって思った。そこで唐突にウクレレを買って弾いて、『麦秋』て曲を友達と作るんだな。それが最初のオリジナルの曲。デンスケを酷使して、カセットのピンポンで録った。 |
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できたオリジナル曲は、その後どんな風な活動になっていたんですか?
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当時は細野(晴臣)さんは¥ENレーベルをやっていて、(高橋)幸宏さんとツアーしていた公開リハーサルの場に行って、直接そのデモテープを渡したり。伊島薫さんがやってた『TRAマガジン』っていうカセットマガジンに送ったり、久保田麻琴氏に送ったり、教授(坂本龍一)がラジオ番組「サウンド・ストリート」やっていたので局に送ったりした。すると、「サウンド・ストリート」の番組でその曲をかけてもらったり、『TRAマガジン』から電話がかかってきて「気に入った。次の号に入れるから」とか、久保田さんからは「オムニバスに参加しないか?」って誘われたり、と反応があった。それから当時のインクスティックやピテカンとかで、夜演奏するようになった。 その頃のワールドスタンダードは、生楽器のアンサンブルをやりたかったので、7人くらいの大所帯メンバーだった。そしてこの頃に、中学のときに衝動買いしたマンドリンが初めて生きてくる。このマンドリンはこのためにあったんだなって思った。弦楽器で曲をやることが、自分のなにかになるんじゃにないかと思ったら、次第に曲が書けるようになっていった。まだたいした曲じゃなかったけど、みんながいいねっていってくれると、嬉しいからまたやっていくんだよね。 |
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その後は、細野さんの主宰するノンスタンダードレーベルに入られたんですよね?
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| 次第に、細野さんのアルバム『泰安洋行』が自分の中で比重が大きくなってた。ものすごくドーンと自分の中にあった。YMOも、もちろん大好きだったし、聴いてたんだけど、やっぱり『泰安洋行』だった。こんなのがやりたい、こんなことをやってる人に会いたいって思ってた。その頃は、自分の中で細野さんの比重が大きくなるの感じながらやってた。だから細野さんのやっていた¥ENレーベルにすごく入りたかった。 ぼくはもう大学を卒業して就職していた会社を辞める前で、細野さんは¥ENレーベルが終わって新しくノンスタンダードレーベルを準備中だった頃。できたらきてっていわれていてので、細野さんのところで本当にやりたかったんだけど、ぼくは待ちきれずに、教授のところのMIDIに決めちゃうの(笑)。でも、また細野さんと会ってすぐ寝返っちゃう。会ったらもう「全然契約してないです。ノンスタに行きたいです」っていっちゃった(笑)レーベルの名前も「ノンスタンダード」で、名前だけなんだけど共通性があったのもなんか嬉しかった。細野さんとなんか縁があるんじゃないかって思った。それでMIDIの人には、「ノンスタが終わったら、MIDIに行くから」って約束して断った。まあ実際そのとおりになったんだけど。 |
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その後、ワールドスタンダードはメンバーを変えて現在に至る訳ですが、今年待望の新アルバム『ディスカバー・アメリカ・シリーズVOL.3−ジャンプ・フォー・ジョイ』が発売されました。現在のレーベルや活動のお話をお聞かせください。
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![]() World Standard 『JUMP FOR JOY』 daisyworld discs/cutting edge |
いまはエイベックスのデイジーワールドという細野さんのレーベルにワールドスタンダードは所属している。ぼくはデイジーでは、アーティストでタレントとしてやっている。デイジーでは、プロデュース業務はやらないで、自分の作品をだすだけに決めた。なんか、一番大事な部分は細野さんにあげるっていうか。自分が作った大切な音楽は、全部細野さんにあげたい。ぼくは長男なので義理堅いんですよ(笑)。 1985年からの細野さんのノンスタンダードでの2年間って、ものすごくスピーティに過ぎ去っていった時代だった。あそこで現実を知らされたっていうか。ニューウェーブ、テクノで片づけられちゃうわりに、とっても濃厚なことをやっていた気がする。葛藤もしたけど、あのものすごい短い期間に経験したことが、自分にとって濃密な経験だった気がする。 |
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アメリカって鈴木さんとは遠い印象があったんだけど、最近の『ディスカバー・アメリカ・シリーズ』の活動はなぜ始まったんですか?
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ぼくはビートルズが好きで、イギリスの音楽が好きだったはずなのに、アメリカかぶれになっちゃった。 途中でぼくは『ポッシュ』ってアルバムを作って、そのときはワールドミュージックにかぶれてていたし、「おれはもう英米音楽なんて知らないー!」って勢いでやってたの。でもそういうのをやりながらも、自分がいちばん音楽として表現するのに、最も遠いところにじぶんを置くのがいいのかなと。もちろんビートルズは自分にとってフィッティングがいい。家でも、もちろんビートルズなんかは聴くし、やっぱり心地いい。ところが、いい湯加減なところで、自分のなにかを発露させるのはすごくむずかしい。好き過ぎちゃって。聴くのは好きだけどお腹いっぱいになっちゃう。自分を違うところに置くことで、なにかできるっていうのが、ぼくにとってはアメリカだった。カントリーやブルースは、ぼくにとってはヘビーな音楽だった。ポップス好きだし、そこまでは無理だなって思ってた。でもそこに自分を置いてみたらどんなものができるかなと思った。 きっかけは、ミシシッピー・ジョン・ハートっていう1920年代のカントリーブルースを作ったおじいさんのCDをたまたま買ったこと。それを寝床で聴いて、すごく気持ちよかった。イーノの『ミュージック・フォー・エアポート』みたいだなって思った。オープンコードで、トーンも変わらない。テロテロ〜ってやってるの。たいしたサビもないし。どの曲も似てるから、永遠に続いている感じ。「イーノのアンビエントとかオブスキュアとか、あの感じと同質じゃない」って思った。その点と点がつながったときに、自分のやることがわかった。ぼくはアメリカにいればいい。そこでアンビエント感とか想ってればいい。それに他にも同じようなこと考えている、ジム・オルークとかダニエル・ラノアって人たちがいることがわかってきた。『ジャンプ・フォー・ジョイ』はジョン・フェイヒイ(注1)に捧げたアルバムなんだけど、この「細野さんにとってのマーティン・デニー」みたいなキー・パーソン、いわばイコンがでてきて、彼がどんどん好きになっていった。もう埋没していく。ただのビートルズ好きなぼくがさ、フェイヒイに埋没していくなんて。それが好きになれるんだな。ものすごく自分から遠いところにあるから、それがエキゾチシズムになるんだ。ガーと燃えて作れる。 この『ディスカバー・アメリカ・シリーズ』は、海外の人も聴いてくれている。去年オースティンに行ったときに、ジム・ホワイトやデビッド・バーンにも会った。いろいろな人と一緒に作るようになって、相手がどんなヤツが来るのかなって待っててくれている。それが、向こうの人から見たらこんな子どもみたいなヤツがやって来るわけですよ。みんな、「あれぇ?おまえがソウイチロウか?」ってなっちゃう(笑)。ギャップがすごいみたい。ヒゲはやしてもっとブルースマンみたいなのを想像してたのに、えらいヘラヘラしたヤツがやってきた訳だからね。話すとみんな同じでわかってくれるんだけど。なんかそうやって自分探しをして、音楽を探してたら、自分とは最も遠いところにあるアメリカが最も適していた。そんな感じですね。 (注1)ジョン・フェイヒイ ポスト・オルタナティヴ・ロックの行方に60年代のドイツのプログレの実験姓を結びつけたシカゴ音響派のキーマン。 |
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仕事の上で大切にしていることはなんですか?
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音楽は永遠の友達。音楽はなんでもすべてを教えてくれると思う。だから音楽を聴くことをあなどらないほうがいいなといつも思ってる。たとえば、人が作ったデモテープでもアルバムでもなんでも、職業柄よく貰う機会も多い。だからこそそのことをあなどらないようにしないといけないと思ってる。もちろんその逆で、ぼくが自分の音楽をあげることもある訳だし、機会があってそれをぼくにくれるというのはどういう意味なのか考えて、ちゃんとぜんぶ聴くようにしている。 たとえばぼくの音楽を聴けば、ぼくのことがほとんどわかっちゃうんだと思うんだ。聴けば、わかる。ぼくもその人の曲を聴くと、その人がどんな人で、どんな日常でどんなことを考えているかまで、相当なことがわかる。だからぼくは、音楽を聴いてすごく気に入ったりすると、すぐ本人に会っちゃう。それで友達になったり仕事になっていったりするんだけど。音楽って単純であるが故に、そういうものが入りやすいんだろうね。 大事にしているのは、基本的には遊び。遊んでいるかどうかが問題。だからインストゥルメンタルにこだわるのも、ストリーテリングがない、歌詞がない、唄がないところで、どうやってそれらを感じさせるか考えるのが面白いから。歌好きなのに歌詞がないと、どうやってその歌を感じさせるかって考えはじめる。するといろいろなやり方がとれる。そこで自分を自由に遊ばせられる。そんな風にクロズードした環境で自分を遊ばせるっていうのは、最初に戻るんだけども、「つなし」の10才の頃にひとりで部屋で遊んでいたこととと同じなんじゃないかな。ぼくは、クリエイトしたり作曲したりすることが特別なことって全然思わないんだ。 |
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仕最後に、鈴木さんの将来の夢といいますか、未来について教えてください。
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| ぼくには、じいさんになったときのフォルムのイメージがすでにあるの。それはもうざっくりいうと、カーネル・サンダースとかヴァン・ダイク・パークスみたいなじいさんになりたいってこと(笑)。いまこの丸い眼鏡かけてるのも伊達や酔狂じゃなくて、そこに到達するための準備みたいなもの。白髪で洒落た爺さんになりたいの。白ジャケット着て、アイビーで、渋谷でレコードを買ってる、そんなじいさんになりたい。いまはその準備をしているようなもんかなあ。 60くらいになったら音楽なんて作っちゃいないと思うな(笑)。お腹も出てきて、でも音楽好きで、そんときでもデステニー・チャイルドなんかも聴けるような、頑固で趣味深いじいさんが理想。究極的な趣味人って感じかな。音楽をずっと聴き続ける人になりたいね。きっと自分の中で、音楽は仕事だけど、限りなく遊びっていう意識が強いんだろうね。 |
取材/佐藤理
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