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| さまざまな世界で活躍するクリエーターに、昔の自分、今の自分、そしてこれからの自分のお話を伺います。子どもの頃はどんなだった? どうして今の仕事を選んだの? これからどんなことするの? いろいろな方向からお話を聞くミニ自叙伝的インタビューです。 |
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マオマオネット インタビュー第24弾 | |
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けんそうさんは、大変幅広い活動をされています。よく聞かれる質問かもしれませんが、「何をしている人」といえばいいのでしょうか?
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いま現在は声優、ですかね。最近では日立のクッキングヒーターやミスタードーナツのCMのナレーションなど。CMやTV番組のナレーションの仕事が多いです。でもその他にも、映画・テレビ・舞台の俳優、声優、俳優、バンド「東京タワーズ」もやっててレコードやCDもだしました。ボクのキャラクター「いぬちゃん」のマンガはずっと描き続けていて、連載もあるし、CD-ROMも作りました。で、DJもやるし、司会も文筆業もコラムも数限りなくやってきて、なんか子どもの頃からの夢はどれも叶えてしまった。でもどうも、自分では何をやってもいまいち受けないなあ(笑)って思ってるんですけど。 |
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小さい頃のけんそうさんは、どんなお子さんだったのでしょう?
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広島出身なんですが、家族には愛され(笑)、まあ普通の子でした。小さい頃、近所に貸本屋があって、よくそこで借りた本を読みふけってました。6才ほど離れたお兄ちゃんがいて、その影響で、小学校へ上がる前から少年マガジンや少年サンデーとか読んでいた。普通に大人の文化を素直に吸収できる小さな子だった。おかげで雑学的な知識は、小さい頃からあったんじゃないですか。小学校1年の時には、すでにマンガ家になりたかった。冒険王編集『マンガの書き方』とか、石森章太郎(現:石ノ森章太郎)先生の『マンガ家入門』とか読んだりしてましたね。 |
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いちばん最初になりたかったのが、マンガ家だったんですね。
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中学に入ると、映画を見るようになって、映画監督にもなりたいなって思うんだけど。石ノ森先生とか藤子不二雄先生の本を読むと、「映画を作るのは人を使って面倒だけど、マンガは一人で作れるからマンガがいい」というようなことが載ってて、ああやっぱりマンガがいいんだなあって思ってました。 |
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中学の時は、どんな映画を観てましたか?
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ブルース・リーやダーティハリーとかを見てましたね。あとは、『ジョーズ』とか(笑)。当時のキネマ旬報に、『ジョーズ』が日本で公開されるにあたって、スピルバーグのサクセス・ストーリーが掲載されてたんですよ。それがすごく面白くてね。19才で作った自主映画が映画会社に認められた話とか、スピルバーグの書いたジョーズの絵コンテも掲載されていて、すごくよかったですね。まるでマンガみたいな絵コンテだった。で、ああこういう生き方もいいなあって憧れました(笑)。 |
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その後、どういう方向に進まれるのでしょうか?
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中学を卒業したら、東京に行きたかったんです。藤子不二雄先生の『まんが道』とか矢沢永吉の『成り上がり』とか読んでいたし、東京で成功しなきゃ!と。いや、単純に田舎者の発想あなんですけどね(笑)。で、高校1年のときに学校を辞めちゃう。両親に「東京にでたいんだよ」っていったら、あっさり認められて。それで15才で、東京で一人で住むようになるんです。 |
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15才での東京一人暮らしはどういう生活でしたか?
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たまに年齢をごまかしてバイトしたり、田舎に電話してお金送ってもらったり、ぶらぶらしてましたね。マンガ家になろうと思ってたんです。当時新しい少年マンガも発刊されてた頃で、チャンスもあるかもしれないと思っていた。でももちろん、15才の子どもがマンガを持ち込んでも相手にされる訳ないんです(笑)。アシスト募集とか東映のスタッフ募集にも申し込むんだけど、うまくいかなくて。18になって、ちゃんとしたバイトしないといけないと思った。マンガ家になりたいんだったら印刷技術も知っておかないといけないと思い、印刷会社でバイトを始めました。 |
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東京へ来た当初の交友関係はどうでしたか?
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友だちはあんまりいなかったですね。たまにSFファンクラブの集いとかに顔を出して、人と交流するくらいで(笑)。いまでいうオタクみたいな感じです。せっかく東京に出てきたのに、そんなに東京を徘徊することもなく、半分ひきこもりみたいな。 当時は最初の広告ブームとかパルコ文化の全盛期。今までボクらが親しんでいた『ガロ』とかのマイナーな文化が、メジャーなパルコ文化に接近してクロスし始めた頃です。『ガロ』では湯村輝彦さんも連載していたし、パルコや西武では糸井重里さんや赤瀬川源平さんや南伸坊さんとかのイベントをよくやっていて、そういうのに顔をだしているうちに、だんだんいろいろな人たちと知り合っていった。その頃からライブハウスへもよく行くようになって、近田春夫さんのライブに行ったり。それから共通の趣味の友だちが増えていきました。 |
| 音楽活動はその頃から開始されたんですか? |
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それで「東京タワーズ」というバンドを友達とやりはじめた。サエキけんぞうさんがハルメンズのライブをやってる頃で、彼と仲良くなって、ライブの前座にだしてもらったりもしました。ちょうどニューウェイブブームがテクノからずれはじめて、キッドクレオール&ココナッツとか、ラテンぽいものがトレンドになってきた頃だったので、「東京タワーズ」はパーカッションや女の子のコーラスも入れて、当初8人編成のバンドでした。 演奏もヘタだったんだけど、そのコンセプトがウケて、'82〜'84年の頃は月1回ペースでライブ活動をしてました。そしてボクもマンガを忘れて、だんだん自分がバンドでやっていけるんじゃないかという勘違いも入ってきまして…(笑)。 で、マンガのための印刷会社のバイトも辞め、ちょっとでも音楽関係の仕事に就こうと思い、ツバキハウスでバイトしたり。でもバンドをやってるうちに、「あれ、おかしいぞ、オレがほんとにやりたかったバンドはDEVOみたいなはずだったのに。これはちがう!」って思ってしまうんです。 で、テクノもニューウェイブも廃れた'84年頃になって、女の子をクビにして、ユニフォームをビシッと揃えた男だけのバンドスタイルに入っていってしまう。それも、まあまあウケたんだけど、いきなりの方向転換にメンバー間では違和感があったみたいで(笑)。それでだんだんバンドをやらなくなっていくんですが。 |
| けんそうさんの中でバンドブームが去った(笑)のでしょうか。その後、俳優の道へのきっかけは? |
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'80年初期の若者って、音楽をやってる人は、演劇も自主映画もやっている、なんにでも顔を突っ込むマルチ人間世代だったんですね。いろんなことをやってないと気が済まないっていう時代ですね。で、ボクたちも、バンドと並行して、8ミリで映画を撮ってたんです。ぴあのコンテストに応募したりしているうちに、次第に映像関係にもつながりがでてくる。そのうち、立教大学の映画研究会と仲良くなって、黒沢清さんという監督がこれからプロで映画を撮影するので、その映画にでてみませんかと誘われたのがきっかけ。『ドレミファ娘の血が騒ぐ』という洞口依子のデビュー作です。 その頃も相変わらずマンガは地道に描いてました。いままでマンガをやっても、音楽をやっても、そんなに人に誉められることはなかった。でも映画に出てみると、特別演技の勉強をしてきた訳でもなく、そんな演技もうまくないのに、人が誉めてくれるんです。それで、じゃあ人が誉めてくれることをやろうと決めた(笑)。 その『ドレミファ娘の血が騒ぐ』という映画に伊丹十三さんも出演してらっしゃった。ちょうど『お葬式』を撮られた頃ですね。そこで、伊丹さんに「ラーメンの映画にもでてみない?」って誘われて、伊丹さんの『タンポポ』に出演することになるんです。映画の本筋とは関係ない役なんですけど、ボク扮する若いサラリーマンが、ホテルのレストランで一人だけ調子に乗って豪華なフランス料理をあれこれ注文して、上司に怒られるっていうシーン。 なんかあの映画に出たおかげで、業界的にも一応まあまあ名前が知られるようになったみたいですね。その後はとんとん拍子でもないんですが、バイトをする暇がないくらいには、俳優の仕事がまあまあくるようになってきた。それでしばらくは俳優活動を続けるんです。でも、最初の頃の映画5〜6本出るでるまでは、まだ下北沢のレンタルビデオ屋でバイトをしていましたよ。『タンポポ』がビデオ屋に出回った頃には、まだ自分でその出演作に貸し出し中の札を貼ったりしてましたね(笑)。お客さんにも、「このあいだこの映画に出てましたよね」とかいわれたり。 |
| その後、俳優として、映画・テレビ・舞台へと進んでいく訳ですね。 |
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当時、竹中直人さんが、ボクの出ている映画を見て気に入ってくださったんです。「今度うちに遊びに来いよ」なんていわれて、遊びに行っているうちに、竹中さんが出演する予定だった舞台に出てみないかと誘われて、なかむらゆうじさんや大竹まことさんのやっているラジカル・ガジベリビンバ・システムと知り合った。それでテレビにも誘われて、「冗談画報」っていうフジテレビの番組にでるようになっていくんですね。なんか「チョット世に出ることができた」って感じですか(笑)。 そんなこんなで俳優を順調にやりながら、それでもバンドの夢も捨てきれずに(笑)。'88年にはまたバンド活動を再開してライブ活動を始めるんです。その当時インディーズレーベル全盛期だったので、サエキけんぞうさんが親身になってくれてうちのバンドもCDをだすことができました。 |
| そんなけんそうさんのいままでの人生の中で、3つ影響を受けたものをあげるとすると何でしょうか? |
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まず、藤子不二雄先生の『まんが道』があり、音楽ではDEVO、そしてMacintosh。もちろん、お世話になった人もいっぱいいるんですが、影響を受けたものというと、その3つですかね。 |
| Macintoshの話が出ましたが、MACとの出会いはいつ頃でしたか? |
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それまでに、「子どもがなれればいいなって思い描く将来の夢」は、スケールは小さいんだけど、全部一応ちょっとずつ叶っているんですよ。そんな人生の目的を達成したような気になってるときに(笑)、初めてMACというパソコンと出会った。まだまだやることは無限に広がってるんだなって、感動しましたよ。 ボクがMACのSE/30を買ったのは、'89年で、80万円ほどしていた頃。当時は俳優活動も順調に続けながら、バンドも続け、でもマンガの夢も捨てきれなかった訳ですよ。 その頃になると、「テレビや映画に出ているかとうさんに原稿をお願いします」というかたちで、原稿依頼がくるんです。そんな自分のコラムに、「あ、挿絵もついでに自分で描いておきます」っていって、自分のキャラクターの「いぬちゃん」とかも描いちゃうんですよ(笑)。編集者に「これはなんですか?」って聞かれると、「いや、これ、昔からボクが描いているマンガで…」っていうと、「いいですね、4コマも描いてみますか?」と進んでいった(笑)。自分の俳優の名前を利用して、なんとかマンガも売り出しちゃった(笑)。おかげで少しずつマンガの注文もくるようになってきた。 |
| 当初の夢だったマンガ家の道に入っていったんですね。 |
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MACを使ったマンガって、まだそんなに誰も手をつけてない頃だから、「よし、マウスで描いたマンガだ!」と思った。マウスで絵が描けて、消しゴムカスも出なくてキレイだし、と盛り上がった。だから、ガタガタのドット線で描いたいぬちゃんを出力するためだけに、80万もだしてMACを買ったみたいなもんですよ。 当時はMACで描いたマンガって珍しかったから、パソコン雑誌にも書かせて貰えるようになりました。それで、テレビのパソコン番組に出演させてもらったり、いぬちゃんのCD-ROMを作ったりと、とんとんと。「これでマルチメディアブームに乗って、時代の寵児になるのかも?」って(笑)思ってたんですけど、そんな猛烈に売れる訳でもなくちょっと挫折感を味わって、「やっぱりオレのいぬちゃんではだめなのか?」とか思ったり(笑)。 |
| いまや「いぬちゃん」は、かとうさんのライフワークですよね。 |
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それでも、いぬちゃんで押し通してね(笑)。MACを最初に買ったときの感動を大事にしたいと思って、ビットマップのガタガタの線にこだわって押し通してたんです。それでずっとビットマップのいぬちゃんを描いてたんですけど。あるとき、ケラの劇団(ナイロン100C)でパンフのマンガを依頼されたときに、パンフレット制作のデザイナーが「あれ、これ、線がガタガタでおかしい。印刷に耐えないですよ」っていいだして(笑)。「え、オレはこれで10年やってきたんだけどな」ってびっくり。このガタガタのジャギーの味がいいと思ってやってきたんだけど、オレの考えはまちがってたのか! と、そこですぐ人の意見に影響されるのもオレのいいところで(笑)、それでいまはこうやってジャギーのないポストスクリプトのきれいなラインのいぬちゃんを描いてるわけです。若いデザイナーはすでにジャギーの時代を知らなかった訳ですけど、オレも若者の意見によって一転しちゃう(笑)。で、いまはすっかり方針転換、新しいいぬちゃんに。 |
| どの仕事も好きなことが仕事になっていったという感じですが、仕事以外の趣味は何ですか? |
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プロレスが好きなんですよ。ただ、プロレスだけはなかなか仕事に結びつかない。妻の反対を押し切って、こそこそとプロレスを見にいったりしてるんです。毎朝ウェブでスポーツ新聞のプロレス欄だけチェックしてます。 いわゆる旅行会社企画の「プロレスをアメリカに観にいくツアー」ってのにも何回も参加してますよ。参加者も、いつも武道館でよく見る顔が参加しているんですね。もちろん、自分のふだん接している世界とは、それぞれ雰囲気とノリはちがうんですが、どういう場所にいっても、なんとなく人に合わせられるのが自分のイイところ(笑)。音楽でもプロレスでも。どの場所にいっても、コアというかマニアックな部分の話についていくのが得意なんですよ(笑)。プロレスファン、ミュージシャン、そのときどきの集まりで、その世界の気持ちになりきっちゃう(笑)。 |
| いままでいろいろな仕事をやってこられた訳ですが、どれかひとつしか選べないとしたらどの仕事がいいですか? |
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それは、マンガですね。いぬちゃんが売れて、マンガだけでホントに食えていけるんだったら、それだけをやってたんだけど、どうもそうじゃないみたいなんで(笑)。とりあえず人に望まれるものから優先的にやるしかないのかなと。もちろんそれぞれが楽しくてやってるわけですよ。でも、フロムエーとか読んだりして、そろそろまったく商売替えでもしようかな(笑)。この世代で、40代まで好きなことやってきた人たちって、お店や会社を始めちゃうんですけど、それで失敗しちゃう人も多い。なんか歳を取っても、若者に頭を下げて仕事をする気持ちも捨てちゃいけないなと思いますね。今度はちゃんと会社入ってやってみたいな(笑)。それがいま考えてることかな。 |
| では最後に、けんそうさんのこれからの未来についてお聞かせください。 |
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ボクの場合は、これだけいぬちゃんをやってきて、ここまでがんばってもまだ人気者にならないっていうのが、死んでも死にきれないっていうか(笑)。墓場に入るまでに、これだけはなんとかしなくちゃいけないって(笑)。 いぬちゃんは、子どもの頃飼ってた犬がモチーフなんですよ。最初はスヌーピーみたいな絵で、12〜3才の頃にはいまのスタイルになっていました。このあいだ、やなせ先生のアンパンマンのドキュメントを観ていたら、やなせ先生は54才からアンパンマンを描き始めて、80いくつでまだ描いてらっしゃるんですよね。じゃあ、オレもまだあと15年は猶予があるのかもしれないかなと思ってるんです(笑)。最近、いぬちゃんの着ぐるみも作りましたよ。 それと、もうすぐ40才になるんですが、40才になったらやろうと思ってる「オヤジロリータ」っていうプロジェクトがあるんです。「ロリータ趣味のオヤジ」じゃなくて、オヤジそのものがロリータである、コドモ的なオヤジの人権を訴えていこうと思ってるんです(笑)。自分自身がもう、コドモみたいなオヤジですからね。そのよさをみんなに訴えていこうというプロジェクト。 みんな「いつまでも少年みたいな男の人ってすてき」って言いつつも、チョコエッグ集めたりしてるコドモなオヤジって嫌われちゃうじゃないですか。それに「いいトシして、いつまで半ズボンはいてるんだ」と責められたりね。そんな世間の批判に向かって、コドモ的オヤジのイイところを訴えていく。アンクル・ロリータ・マニフェスト。ちゃんとスローガンの入ったTシャツとかも作ってね。それが夢です(笑)。 |
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Kato's Work
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