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| さまざまな世界で活躍するクリエーターに、昔の自分、今の自分、そしてこれからの自分のお話を伺います。子どもの頃はどんなだった? どうして今の仕事を選んだの? これからどんなことするの? いろいろな方向からお話を聞くミニ自叙伝的インタビューです。 |
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マオマオネット インタビュー第29弾 | |||||
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小さい頃はどういうお子さんでしたか?
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いや、本当に普通の子供でしたね。当たり前に流行にも乗るし、そんなワルでもないし。中学高校は坊主頭で詰め襟でしたが、でも、流行もあたりまえに好きになるような、ごく普通の子供でした。 |
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美容という仕事に目覚められたのはいつ頃ですか?
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実家が母の経営する美容室でした。家とお店が一緒にあったので、生まれたときから美容という職業を見て育ってきました。でも、僕自身はそんなに興味が持てなかったんです。美容室や床屋へ行くのも嫌いでしたね。いまでもそうかな(笑)? |
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学生時代は、どんな風に過ごされたんでしょうか?
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高校はマンモス校で、ヤンキーの多い学校だったんです。その中でもごく普通の学生でしたね。僕は違いましたが、友達はほとんどヤンキーという(笑)。 ただ僕は、中学2年から突然喘息からくる気管支炎になって、何ヶ月も入院するような生活になってしまったんです。高校になっても度々病院へ行ってました。普段は元気なんですけど、走ったりしてはいけないといわれたりね。いまはもう治っていますけれど。 |
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病気がちな学生生活だった訳ですね?
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そんな風に病気をしていたので、将来の夢は、もうどっちでもいいよという感じでした。それよりも、自分の体はどうなるんだろうと、漠然と思っていました。 もともと美容師になる気はなかったんです。ただ、中学の頃から店の手伝いはしていましたし、病弱なこともあって、母から美容師免許だけは取っておいたらと勧められて、美容学校へ進学することになりました。会社員の父は、まさに「髪結いの亭主」なんですけど(笑)、美容師だけはするなといってました。 |
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美容学校での生活はどうでしたか?
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お店を手伝っていたこともあって、仕事の流れとか手順はよく知っていたんです。特になりたいとは思っていなかったけど、器用だったので難なくやっていました。せっかく始めたのでビリはいやだし、学校にいる間は一生懸命勉強していましたね。もちろん遊びも。 その頃の僕には、いまの子みたいなはっきりとした夢がなかったし、何がよくて何をすればいいのか、わからなかったんだと思います。美容は嫌いではありませんでした。もちろん身近なものだった。でも、それがガーッと一直線に向かう情熱ではなかった。 卒業したあとは、昼は研究科に所属して、夜は遊んでいました。メイクやアップの講習を他にも受けたりして、興味があれば勉強するというノリで、真剣な感じではなかったですね。 基本的には美容師になる気持ちもないまま過ごしていた気がします。そして、まわりもいよいよ就職という時期になって、美容もやってみていいかなという気持ちになっていったんですね。 そして、ヨーロッパ研修へ行って、凄いカルチャーショックを受けた。「これは一度、海外で暮らしてみたいな」と思いました。それに美容の仕事は、海外との距離がとても近いんですよね。点と点でつながっている。そこで海外へ行くことを決めました。 |
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海外へ行く事を決意されましたが、その後、学校の教員となられますよね?
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僕は順序を考えるタイプなんです。海外に住みたいなら、まずお金を貯めなければいけない。それには働くこと。どうせ働くなら美容の仕事がいい、と。同じ時期に、教員にならないかと誘っていただき、3年ほど教員生活を経験しました。昼は学校で教えて、夜は遊んで、そして英語学校へも行くという生活でしたね。 |
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そして、その後ロンドンへ留学ですね。あちらでの生活はいかがでしたか?
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まずロンドンでヴィダルサッスーンの学校へ1年間行きました。教員時代に英語の勉強もしてましたが、働きながら遊びながらの勉強(笑)では無理ですね。ほとんど意味がなかった(笑)。英語ができるようになったのは、やはりロンドンへ行ってからです。まず3ヶ月ほど英語学校へ行って、それからサッスーンへ入学。 で、その英語学校でそこそこ喋れるようになったと思ったんですが、各国のノンネイティブな生徒が集まる所で通じる英語力ですからね(笑)、サッスーンの英語の授業が全然わからない(笑)。それでまた、悔しいから夜間の英語学校へ行ってがんばりました。 当初はサッスーンを卒業したら帰ろうかとも思っていましたが、そこで、いまDADAにいるメンバーの植村と菅野と知り合い、3人でロンドンを拠点にDADAをやろうということになりました。 |
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DADAのネーミングの由来はなんですか?
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ダダイズムのDADAからとっています。社会に対して既成概念を変える意気込みというのもありましたが、まず自分たちの抱えているギャップに対して挑みたかった。 ロンドンへ行く時には、だんだん自分の意識が美容という方向へ向かっていたんです。このままいくと、僕はどうなるんだろうか、自分の将来はどうなるんだろうか、すごく不安に思えていた頃です。 今まで当たり前に過ぎていった時間や、病弱だったこと、このまま自分はどうなるんだろう、と不安があったんですね。だからこそ、自分で一度くらい、やりたいと思ったこと、美容ということを、なんとかしないといけないんじゃないか。いままで小さい頃から見てきた美容というもの、これだったら自分でやっていけるんじゃないかと思ったんです。それに僕は、自分の名前を残したいとも考えていたんです。 でも最初は、自分と現実とのギャップに、自分自身が苛立っていた。自分の10年後を考えてみると、日本の美容の現状も嫌になる。それで外国へ行って、みんなと知り合って、皆もそれぞれに抱えていた苛立ちがあって、そんなことをすべて話し合ったんです。 |
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そしてDADAの結成となった訳ですね。最初はどんな活動をしてらっしゃったのでしょう?
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植村はその頃サッスーンで唯一日本人として働いていましたが、僕たち3人は、自分たちの手で何か起こしてみようと考えたんです。美容で何か革命を起こしていこうと思いました。 そんな僕たちに何ができるかというと、作品の撮影です。みんなそれぞれ仕事を持って働きながら、週末には集まって作品づくりを続けました。毎回テーマを決めて、シンクタンクをやって、モデルハンティングをして、作品をつくって、撮影をする。それを繰り返し繰り返し、ずっとやっていましたね。 僕は、ポートベローマーケットの一角の美容室で働いてました。爆音で音楽が流れているような凄いお店でした。もうその頃には、英語でコンサルテーションくらいはできてたけれど、学校の英語とお店での英語は全然違っていました。そこから生活英語を覚えていきました。英語では本当に苦労していましたよ。いまでも読み書きはできないけど、ちゃんと通じる英語を覚えることはできました。 |
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その後帰国されて、日本でDADA設立の運びとなる訳ですね。
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僕のパスポートの期限がなくなっていたことも帰国のきっかけですが、ずっとロンドンでやっていたけれど自分たちの足場がなかった。すでにDADAも、3人から6人ほどに仲間も増えていました。次のステップへ移るタイミングだったんです。 僕たちは、最初からDADAの10カ年計画を立てていました。3年後、5年後、10年後にはこうしよう、と計画していたんです。それで、僕が先に帰国して日本での足場作りに取りかかることになった。 |
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カラーリストの勉強は、やはりサッスーンですか?
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そうです。学校でカラーリストの勉強をして、初めて知りました。カラーはこういうものなんだと初めて知って凄く面白かった。 もちろんロンドンには、まわりにたくさんカラーリストがいました。それで、皆で話している時に、「将来のDADAにはカラーリストも必要だと思う?」って聞いてみた。みんなやっぱり必要だという。「誰がやる?」「じゃあ俺がやろうか」ということになって(笑)。シンプルな決断でしょう? |
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そして、帰国されてから準備して、原宿でDADAオープンですね。
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帰国して1年半で準備しました。DADAは、皆で出資し、共同経営として設立しました。まず1号店は原宿で始めました。オープンから雑誌の取材が入ったりして、とてもいいスタートだったと思います。 まずはじめは、4人で始めたんですが、すべてがロンドンとは違っていましたね。もともと日本にいたのでシステムも知っていたというのに、スタッフ全員がすっかりロンドンのシステムとお客様に慣れてしまっていたんですね。最初は最悪(笑)でしたよ。 スタッフ全員英語ができたので、外国人のお客様も多かったんですが、日本人のお客様に慣れていなかったんです。 たとえば、外国では「Great! Cool! かっこいい」がほめ言葉。「cute! かわいい」は、子供に対するほめ言葉です。でも日本では、おばあちゃんでも子供でも、「かわいい」がほめ言葉ですよね。それに顔の輪郭や角度もすべてが違った。外国でかっこいいものを日本でやると、行きすぎてしまうんです。2〜3ヶ月して、「これはダメだ」と思った。それからいっぱい日本を勉強し直しました。日本の生活、習慣、好きなモノ、何を求めているのか、時代性、すべて勉強しました。 外国では、ヘアドレッサーとお客様の関係が異なっています。僕はプロだから、という意識でやっていないといけないし、常にYESかNOを決断しないといけない。向こうでは、「やりたいの? やりたくないの? やりたいなら、じゃあやれば?」としょっちゅういわれていましたからね。「Just do it!」って、ほとんど毎日いわれていました。 日本では、まず信頼関係を築くためのコミュニケーションが大切です。そこで成立する会話というのがあって、信頼が成り立つんですね。「どんどん切って、どんどんカラーを入れて、これがいいんだよ」っていう外国的な主張の強いスタイルは、相容れないんです。 ただ、僕たちは、決め事はしないスタイル。いいものはいいと受け入れる意識と、柔軟性がすごくある。もちろん、やりたいと思うことは、はっきり持っています。自分を捨ててはいけない。DADAの何がいいかというと、そういう精神性なんだと僕は思います。 |
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昨年秋発売された『Color Control』という本は、好調な売れ行きで大好評です。そのお話を伺えますか?
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いままでのカラーの本は、テクニックのことが多かったと思います。僕の本は、「理論として読む本」というバイブル的なものになってくれるといいですね。リアルに考えないといけないことも含め、こんなに出しちゃって大丈夫?と心配されるほど、自分のノウハウのすべてをこの本にまとめました。 カラーは、理論とセンスの両方が必要です。そこに経験や、人の気持ちとか柔らかさといったものが入るからこそいいものができるんです。DADAには、カラーリストが7名ほどいますが、不思議なことに皆それぞれ仕上がりの色が違うし、個性がでてくる。 僕たちカラーリストは。独特な色の見方や見え方をしていると思うし、女性に対する「女性像」のイメージをしっかり持っている子が、カラーリストには向いていますね。カラーというのは、ある種の化学ではあるけれど、ケミカルだけじゃできない。人がいて、自分がいて、そのあいだに存在するモノが何かを掴み取る感性がないといけない。想像、発想、提案。この3つのことが大切だと思います。 |
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ところで今までの西海さんの人生の中で、3つの出会いがあるとしたら何でしょう?
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1番目は、親との出会いです。自分の親に育ててもらって、本当によかったなと感謝しています。僕は体が弱かったので、親が引け目を感じていると思うんですけど、あんな風に育ててくれてよかったと思いますね。 2番目は、DADAのみんなに知り合えたこと。25才の頃に、DADAのみんなに出会えたことが、僕の人生のすべてを変えたと思います。一緒に作っていくことができる仲間だし、多分このままずっとやっていくでしょう。 3番目は、海外へ行った時の友達。海外へ行って、自分はすごく変わりました。今までなんて狭いところにいたんだろう、まだまだ知らないことがいっぱいあると感じました。 |
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では最後に、西海さんの10年後はどうなっていると思いますか?
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45才までには仕事を辞めていたいな(笑)。基本的には何もしたくないですね。いま自分がやっていることを辞めないと、次が上がってこれないじゃないですか? 10年後も美容の世界にいるとは思うんだけど、いまの仕事は誰かに引き渡して、自分は他の好きなことをやろうと思いますね。 いまは日本でまだまだやることが多いのですが、外国でやることを見つけられれば、外国へ行ってもいいですよね。人生って単純。やるか、やらないか、それがすべて。すべてが自分の中で決断できる。やりたくなかったらやめればいいし、やりたいことなら、大変でもなんでもやるだけ。僕たちは、夢は叶えるものだと思っているし、実際に叶うものだと考えてやっています。最初大変だと感じても、やりかたは、実は簡単。人生は、すごくシンプルにできているんですよ。 |
取材・文/マオマオネット編集部
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Hiroshi Nishigai's Works
Copyright (C) 2003 DADA
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| 『Color Control』 http://www.shinbiyo.com/sogo/cc/index.html 著 /西海洋史 定価/4,000円(+税) 発行/新美容出版株式会社 03-5770-1201(営業部) |
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