UP DATE:2003.05.01
 
さまざまな世界で活躍するクリエーターに、昔の自分、今の自分、そしてこれからの自分のお話を伺います。子どもの頃はどんなだった? どうして今の仕事を選んだの? これからどんなことするの? いろいろな方向からお話を聞くミニ自叙伝的インタビューです。

マオマオネット インタビュー第30弾
画家
牧野伊三夫
Isao Makino
『暮しの手帖』の表紙や挿絵、サントリーが発行する小冊子『ウイスキーヴォイス』などのアートディレクションと挿絵。画家 牧野さんのお仕事はどれも、牧野さんの創作に対する真摯な姿勢をそのまま表現した、じっくりと味わい深い素敵な内容ばかりです。旅先で床屋さんを見つけると、そこへ入って頭を刈ってもらったり、お店の写真を撮ってくるという牧野さん。今回は、そんな牧野さんの現在・過去・未来についてお話を伺いました。

まず牧野さんのご職業は何とお呼びすればよいでしょうか?
絵描き、です。絵を通して物事を考え、表現しているから。生活のなかで出会ういろいろな場面で、何だかわからないけれども、自分の考える絵を探しています。現実と虚構の間を行ったり来たり、いつの間にかどちらが本当なのかわからなくなっていますが、そこからいろいろな作品が生まれます。装丁や挿絵の仕事をすることが多いです。

小さい頃はどんなお子さんでしたか?
九州の小倉という町に住んでいました。いたずらっ子で、幼稚園の園長室に一日立たされたこともあります。うちの家はスーパーをやっていて忙しく、僕たち兄弟は車で一時間ほどのところにあるおじいさんの家で過ごしていることが多かったですね。おじいさんは、エンジニアのような大工のような人で、機械から家の設計まですべてを自分でやってしまうという、ちょっと変わった人でした。おじいさんの家は、自分で作った一軒家で、薪でお風呂を焚いたりするような家。そこにある工房には、僕たちが遊びに来たときのために、木片や針金、空缶、板切れなどがとってあって、そこでおじいさんに万力やノコの使い方を教わっていろいろなおもちゃを作りました。白いチラシをたくさん取っておいてくれて、そのチラシに鉛筆で絵を描くのもとても楽しみでした。

とにかく非常に面白いおじいさんでした。たとえば、捨てられた電気洗濯機についているタイマーを使って、木箱入りの自家製タイマーにしたりするんです。それをつけると、自動的にテレビが切れるようになる。こたつで寝ながらテレビを見ていてもいいようにね。スーツ姿で自転車に乗って弁当を下げている様子がかっこよかったなあ。

画家になろうと思われたのはいつ頃ですか?
本格的に決心をしたのは、二十代後半に勤めていた会社を辞めてからです。ただ、絵を描くことになったきっかけはいくつかあります。

たとえば幼稚園の頃、近所に、学年を修了する度に教科書を捨ててしまう小学生のお兄さんがいました。僕は、そのいらなくなった教科書をもらってきてはよく見ていました。文字は読めないから絵だけを見ていました。いまでも覚えていますが、その中に水に沈むものと沈まないものを比較している理科の教科書があったんです。そこには、コップの水に浮いている木ぎれや、沈んでいる釘などが描いてあって、僕の目にはすごくきれいに見えました。これはもう「自分で再現しなければならない!」となぜか思い立って、まずグラスに、拾ってきた汚い木ぎれを入れた水を凍らせてその状態を作り出そうとした。なぜ凍った水だと思いこんだのかはわからない。静止した状態だったからでしょうか。母親にも「シャーベットにもならないわよ」と笑われました。いまから思うと変わっていますが、絵に心を動かされて行動したという、最初の経験だったと思います。

子供の頃は、特になりたいものはありませんでした。虫が好きで、近所でいろいろな虫をつかまえてきては家に持って帰るので、「虫博士」とか呼ばれていました。カマキリにコオロギやキリギリスを食べさせたり、カナヘビを手のひらの上で居眠りさせたりするのが得意でした。小学校一年生のとき、大型の食用蛙を教室に持っていって、みんなを驚かせようとしてクラスの子たちを追っかけたら、帰りのホームルームのとき、担任の先生にいやというほどぶたれました。それ以来、机は先生のまん前。それから植物も好きで、家に花壇を作ってもらって、いろいろなものを植えて観察記をつけていました。ホウセンカやヘチマなんかです。その種を取って翌年植えたりね。あとは、とにかく外で遊んでばかりいました。野球が好きでした。

理科が得意だったので、科学者になろうか、なんて思っていました。絵を描くのは特別好きではありませんでした。

小学校に上がると、毎週近くに住んでいる画家夫婦のお絵かき教室へ通っていましたが、それも絵を描くのが好きで通っていた訳ではなく、そのお家へ行くのが楽しくて通っていたようなものでした。クリスマスになるとケーキをだしてくれたり、家では飲まないコーヒーをだしてもらったりする、そんなことが嬉しくて、その教室に通っていたんですね。家には先生の描いたヘンテコな絵が飾ってありました。ずっと後になって、それがアンフォルメルの絵であるということがわかったのですが、そんな不思議な空間に自然と惹かれていたのかもしれません。

中学生の頃に、テレビでピカソの娘さんが「父は毎朝起きると絵を描きにいっていました」なんて語っているのを見たことがあるのですが、絵を描くのは遊びでは?と不思議に感じたのを覚えています。うちの父は、毎朝仕入れに行って店を開けて、というように働いているのに、「絵を描くのが仕事」というのは楽しそうでいいなあとうらやましく思った記憶があります。

そんな牧野さんが美大を目指すことになる経緯は何でしょうか?
大学は、なんとなく文学部に憧れていました。しかし、先生から「おまえは絵もうまいし数学もできるから、美大の建築科へ行きなさい」と勧められました。だけど得意な科目で学部を選ぶことには抵抗がありました。煮えきらない感じといいますか。

高校2年生の時、東京にある美大の予備校の夏期講習に通ったことがあります。夜行列車で上京しました。そこでみんなの絵を見たらすごくうまかった。美術学校を目指している人たちの絵を見たのも初めてだったし、非常に衝撃的でした。美大生という人たちに触れあうのも初めてで、すごく楽しそうに見えた。このとき、自分では絵は得意だと思っていたのですが、提出した作品を酷評されてしまい、立ち直れないほど落ち込んで帰りました。「ママさんたちが同好会で描くようなイヤらしい絵だ」といわれました。くやしかったけれど、どう立ち直ったらよいやらわかりませんでした。

まだそのときは美大へ進む気持ちもなかったんですが、そこで知り合った女性が多摩美へ合格して、いろいろな学校の話を聞いたのも、あとになってみれば美大へ進むきっかけとなりました。

結局、高校3年生の夏休みに美大への進学を決めて、絵の勉強を本格的に始めることになりました。

友人たちが受験勉強しているときに、急に美術部へ入部して、毎日絵ばかり描いていました。おかげで高校の学科試験がおしりから二番目に落ちちゃいましてね。野球部のキャプテンと最下位争いのとき、どうせわからない問題ばかりだからと、三枚の答案用紙に氏名だけ書き入れて、あとはなにも書かずに白紙で提出したことがあります。赤字で大きなバツ印のついた0点とだけある答案用紙が返されたときには、あまりの美しさに見とれてしまいました。きれいだったから、いまでもその0点の答案用紙は取ってあるはずです。今思うと、「0点という、教師とのコラボレーションアート」(笑)。もちろんそのあと、先生に呼びつけられて叱られましたけどね。

その後、東京の多摩美術大学へ進学されました。美大の生活はいかがでしたか?
いまはもうありませんが、まず多摩美の寮に入ったんですよ。六畳で、二人一部屋。山奥にある寮です。地方出身の子が多くてすぐ友達ができました。「これで必要な物を揃えなさい」といって親からお金を渡されていたのですが、木製の立派な机を買ったら全部お金がなくなって椅子も買えなくなってしまった! これは内緒なんですが、仕方がないから教室の椅子を持ってきて使ってました。この机は今でも使っています。

その年の夏休みに、僕は一人で山の中の寮にいて「何もしない生活」を初めて体験しました。家にも帰らず、バイトもせず、人とも会わず、絵も描かない、そんな風に過ごしたら人間ってどうなるんだろう?という実験をしてみたんです。もちろん、掃除洗濯ご飯はちゃんとやりますが、それ以外はなにもしない。眠いときに寝て、目が覚めたときに起き、あとはじーっとしている。高校時代は水泳部のキツイ練習をしたり勉強しないといけなかったし、なにもしない生活というのは初めての体験。それがとても気持ちよかったんですね。七月いっぱいずっとそうやって一人で過ごしていました。その夏、山の中で一番最初に鳴き出した蝉の声を聞きました。何もしていなくても、いろいろ気付くことはあるんだなと、そう思いました。東京にきて、逆に小倉に住んでいた頃よりも、初めて自然の存在や自分自身の存在に気付いたようなものです。何もしないで過ごした夏休みのおかげで。

何もしない実験は夏休みだけで終わったんですか?
その後は、美術学校に入ったんだから絵を描かなければ、読んでいない本は読まなくては、見ていない映画は見なくては、熱烈な恋愛をしなくては、という衝動に駆られる一方で、若くて健康な自分が嫌で、病的でアンダーグラウンドな世界に強く惹かれるようになっていたんです。完全にドロップアウトして狂人のようになりたいと思いました。

寮を出て、アパートで暮し始めて、だんだん学校へ行かなくなっていきました。友だちと映画を作ったり、一人でレゲエのコンサートに行ってラム酒を飲んでゲロを吐いたり、女の子と何日も裸で過ごしたり、版画室にトースターと寝袋を持って数週間リトグラフを刷ったり。いろいろなことをやっていました、というか何をやったらよいかわからなかったんでしょうね。

大学在学中は、外国へ行くこともありましたか?
卒業旅行でペルーへ行きました。それは小学校の先生の影響ですね。小学校の先生で、伊藤先生という女性が担任で、教科書を使わない授業をするような面白い先生だったんです。フルートが上手だった。僕たちが六年生の時にペルーの日本人学校へ転任されて、その後数年たって帰国されたときに会いに行ったら、先生はすっかり変わっていた! 髪も伸びて、なんだかラテンの雰囲気にあふれていて、中学生だった僕たちにピラニアの剥製をおみやげにくれたりしてね。その後また先生はペルーへ行っちゃうんですけど、その思い出の刺激が強烈だったんでしょうね。それに、当時エスニックな文化に惹かれていたということもあります。

当時の南米は情報も少なかった。見たものがすべて体に入ってくるように感動し続けて、カメラマンと間違われるほどに、写真を大量に撮ってきました。知り合ったゲイの大男に襲われかけたり、屋台でセビーチェを食べて高熱とゲリで五日間ほどホテルで寝たりしました。ここで死にたくないなあ、なんて思いました。ホテルの人は、「コカ茶を飲めば元気になる」なんていって毎日部屋に「コカ茶」を持ってきてくれたのですが…。

卒業後は、どうしようと考えていましたか?
留学もしたかったんですが、兄弟三人とも下宿をして大学に通っていて、実家には大学院へ行くお金もなかったし、就職することに決めました。それでアジア雑貨のチチカカというお店に内定が決まったんです。南米でテキスタイルデザイナーになろうと思っていました。ところがもうすぐ卒業という時になって、友人が広告制作会社の求人を見つけてきて、いい会社だから試験を受けろと言われた。それで受けてみたら、合格してしまった。受かる訳がないと思っていたのですが。内定がだぶってしまったので、チチカカにはお詫びにいきました。社長の浜根さんはとてもよい方で、「その方が君の将来にはいいと思うよ」と言って、酒を飲みに連れて行ってくださいました。

急展開の就職ですが、広告制作会社に決めたのはなぜですか?
広告のロケなどで海外へ行けるんじゃないかと思ったのが一番大きかったです。実際、開高健さんがウイスキーを持参して、カナダの漁業組合の人を訪ねていくという設定の仕事に同行して海外をまわることができました。僕は新米で、何もできないのに同行させてもらった。ウーロン茶の取材で南中国の茶農家を訪ねてスケッチ旅行したりもしました。会社としてはアートディレクターを育てようと考えて採用してくれた訳ですが、最初は何をやっていいのかもわりませんでした。

僕がその広告制作会サンアドに入ったのは、葛西薫さんがいたからです。大学の就職課にあった「プロダクション年鑑」でサンアドの頁を見たとき、ぱっと彼の作品が目に飛び込んできた。こんな素敵な広告を作るのはどんな人だろうと思いました。実際会社で仕事をする様子を見ていても、とんでもなく魅力的な人でしたね。デザインというものが、どんなによいものか、ということを教えられました。

広告業界の仕事はいかがでしたか?
広告業界というよりもサンアドという会社が、僕にはとても居心地がよく、まわりで働く人たちを見ているだけでも刺激的でした。ただ、僕は仕事も一人前にできないくせに、遅刻も多く、よく怒られていました。ひとたび出社すると、いつ帰宅できるかわからない。だいたい昼頃出社して、翌朝明るくなって帰社という日が続きました。広告の仕事をしながら、ぽつぽつ絵を描いていたのですが、あるとき、山口薫という画家に出会いました。欧米のアーティストばかりに興味を持っていた僕には、日本にもこんな画家がいたのかと、衝撃でした。僕にもこんな絵が描けたらいいなあと思うようになりました。

そのうちに、父親から「自分の会社を継がないか?」という話もでてきて、家業を継ぐか、そのまま会社でアートディレクターになってやっていくか、自分で絵を描いてやっていくか。今後の進路についてものすごく悩んで、心も体もぼろぼろに悪くなっていったんです。そして結局、絵を描いていくことにして、会社を辞めることにしました。

会社を辞めて、絵に専念しようと思って、アパートの一部屋にアトリエをつくりました。お金もなかったので、キャンバスも買えず、ベニヤ板を切って、そこに描いていました。日に日に貧乏になっていって、毎日安酒で二日酔いをして頭痛がしていました。だけど精神的には充実していました。描くことがどんどん楽しくなってやめられなくなった。昔のあの「夏休み」が、また始まったようなものですね。ちょうどそれも夏でした。秋の終わりまで毎日、大雨の日以外は、家の近所の公園へ出かけては木ばかりを描いていました。

その年の暮れに初めて個展をやりました。近所にあった「でんえん」という名曲喫茶に作品を並べた展覧会です。プリントゴッコで案内状をつくり、自分で額を作って作品を飾りました。会社の先輩や友人たちがやってきてくれて、作品を買っていってくれました。有り難かったです。この頃、旅行研究家の山下マヌーさんと出会い、ハワイなどに取材へ行き、海外旅行関係の本のイラストをずいぶん描かせていただきました。

牧野さんの現在のお仕事について少しお聞かせいただけますか?
デザインやイラストを描いているのがいまの主な仕事です。今は『暮しの手帖』の表紙と、その中の挿絵をほとんど描いています。この表紙(2003年3号)なんかは、寒天で作ったオブジェです。それから、サントリーから全国のバーテンダーへ向けて発行している小冊子『ウイスキーヴォイス』の装丁と絵を担当しています。ウイスキーに関係したいろいろな話やインタビューなどが載っています。全国のバーへ取材に行ったり、蒸留所へ行ったりして、楽しんでやっています。毎年カレンダーも作っています。今、「ウイスキーヴォイス」という銘柄のシングルカスクウイスキーのボトルラベルを作っているんですよ。

その他には、『四月と十月』という美術家の同人誌を仲間と一緒に作っています。こちらは定期購読と美術館を中心に配布しています。個展は、ほぼ年一回のペースでやっています。今年は十二月の終わりに原宿のHBギャラリーで行います。

牧野さんの今までの人生の中で三つの出会いがあるとしたら、それは何でしょうか?
三つに限定するのはむずかしいけれども、たとえば一つは、大学や寮を含めて、多摩美という場所があると思います。二つめはサンアドという、「社会で仕事をする」ということを教わった場所です。そして三つめは、小学校の先生、それとも山口薫氏の作品、でしょうか。うまくこの質問には答えられません。その時々の場所で面白い人々と出会って、その人たちとの出会いによって、すごく僕の人生は支えられていると思います。

最後に十年後の自分はどんなことをやっているでしょうか?
もう少し落ち着いて絵が描けるような場所で、ずっと絵を描いていたいですね。今住んでいるような古い日本家屋が好きなので、そういうのんびりした場所に住んで。

 

Isao Makino's Work

『暮しの手帖1号』(暮しの手帖社)
『暮しの手帖2号』(暮しの手帖社)
『暮しの手帖3号』(暮しの手帖社)

『暮しの手帖3号』p.50~p.51(暮しの手帖社)

『WHISKY VOICE』(サントリー株式会社発行)

『WHISKY VOICE』No.14(p.18~p.21)

『WHISKY VOICE』No.7(p.22~p.25)

『WHISKY VOICE』No.6(p.8~p.9)
『WHISKY VOICE』No.8 (p.10~p.11)

(問)サントリーお客様センター 0120-139-310
現在、山崎、白洲の両蒸留所のショップでのみ販売しています。七月上旬よりネット販売の予定。


同人誌『四月と十月』創刊号
同人誌『四月と十月』vol.4

同人誌『四月と十月』

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*定期購読のお知らせ
年二回発行。ご希望の方には的購読を受け付けています。
郵便振替 00110-7-31271
四月と十月編集室
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同人誌『風呂会』No.2
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スケッチ
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国分寺のお酒とカレーライスのお店「ほんやら洞」の看板絵
国分寺のお酒とカレーライスのお店「ほんやら洞」の看板絵



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画 家
○牧野伊三夫 Isao Makino

1964年北九州生まれ。画家。美術同人誌『四月と十月』同人。広告制作会社サン・アドを退社後、国分寺名曲喫茶でんえん、銀座月光荘画材店などで毎年個展を開催。現在、『暮しの手帖』表紙や本誌の挿絵、海外旅行研究家山下マヌー氏の本、機関誌『WHISKY VOICE』(サントリー株式会社)などを手がける。画業のかたわら、各地の食堂や酒場、家での飲み食いを楽しんでいる。