UP DATE:2003.06.02
 
さまざまな世界で活躍するクリエーターに、昔の自分、今の自分、そしてこれからの自分のお話を伺います。子どもの頃はどんなだった? どうして今の仕事を選んだの? これからどんなことするの? いろいろな方向からお話を聞くミニ自叙伝的インタビューです。

マオマオネット インタビュー第31弾
遊 人
伊勢田 穣
さん YUTAKA ISEDA

ヘアスタイリスト伊勢田 穣さんは、大阪に拠点を構えるHAIR MAKE遊人の代表。最近では、遊人とニューヨークLAICALE、ネイルサロンLRとがパートナーシップを結んでプロデュースした融合と創造の新空間LAICALEも展開してらっしゃいます。心斎橋にある大型スペースLAICALEは、まるでSOHOの倉庫のように広々とした空間でヘアカットを楽しめます。またLAICALEは、使用する水や空気にまでこだわり、お客様が快適に過ごせるための空間づくりを心がけているそう。伊勢田さんの関西弁での語りは、お話いただいた波瀾万丈の内容もさることながら、とっても人間的魅力にあふれていてステキです。そんな伊勢田さんの現在・過去・未来をお楽しみください。


小さい頃のことのことをお話しいただけますか?
「いわゆる鍵っ子」
僕が小さい頃に両親は離婚をしていて、母親が働いて育ててくれていました。いわゆる鍵っ子でした。

中学時代はどんな感じでしたか?
「でもね!イケてるヤンキーだったんですよ!」
中学からは、もう半端じゃないグレ方をしました。よく警察のお世話にもなっていました(笑)。ヘアスタイルは坊主アタマで、てっぺんまで剃り込みを入れているという、かなりヤンキースタイル(笑)。 でもね!イケてるヤンキーだったんですよ!

イケてないのは、ビーバップハイスクールみたいなリーゼントスタイルのヤンキー。僕らの時代は、いわゆるヤクザ(!)ですね。ヤクザっぽい硬派な感じです。ジョーゼットのスケスケシャツに、腹巻きが透けて見えるといった格好です。育ったのも競艇の町、住之江。まるで「あしたのジョー」の舞台のようなすさんだ下町でした。その頃つきあってた友達や先輩の八割は、いまや金融関係かヤクザですよ。いまは、つきあいがないですけどね(笑)。

部活もやらずに、帰宅しては仲間と群れてました。ボーリング場やゲームセンターで、朝方まで延々となんともなく話していました。今から思えば、寂しがりの人間ばっかりが群れていたんでしょうね。その頃は、みんなといるとなんか自分の家に帰ったような感じがしてましたよ。仲間が家族みたいなものだったんですね。

高校受験はどうされましたか?
「ゆうひが丘の総理大臣!」
誰でも受かる高校を受験しました(笑)。で。入学する訳ですが、三ヶ月くらいで学校に行く意味を失って結局辞めてしまいました。ところが、友達に恵まれていましてね。毎日友達が来て、「学校に戻ってこい」と言いに来てくれるんですよ。それでまた同じ学校に翌年受験して入り直しました。

高校は辞めてそのまま働こうかとも思ったけれど、「やっぱりこの友達たちともうちょっと一緒にいたい」というのが高校に再入学した一番の理由です。「ゆうひが丘の総理大臣」じゃないけど(笑)。その頃は未来のことなんて、明日のことさえ、何も考えてなかったんですよね。

ヤンキー道を突っ走っていた(笑)伊勢田さんですが、美容に興味を持たれたのはいつ頃ですか?
「隠れDCブランダー」
みんなの手前はヤンキーファッションをしてましたが、実は僕はDCブランドが好きな'隠れDCブランダー'だったんですよ! Nicoleとか大好きでしたね。いつからかファッションデザイナーになりたいと漠然と夢みていました。ちょうど三宅一生さん、菊池武男さん、松田光弘さんが活躍されていた時代です。とりわけ三宅一生さんには憧れましたね。

それで卒業したら服飾専門学校に行きたくて、学費なんかを調べました。ところが最初の学費で80万円くらいかかってしまうんです。それにその何万分の一の人たちだけしか、本当に第一線で活躍するファッションデザイナーにはなれない。そんな途方もない夢に、母親が一生懸命働いたお金を使っていいのか? それが本当に自分のやるべき道なのか? 果たしてそんな感性を自分が持っているのか? もしかしたら遊び半分なのか? そんな疑問が湧き上がってきて、自分自身でも確信を持てませんでした。

それで高校卒業後の一年間、水商売で働いてお金を貯めて、自分のお金で服飾専門学校に行こうと決めました。一年間働いてみて自分の心が変わらなければ、きっと服飾デザイナーになっているはずだと考えたんですね。

水商売の仕事は、女の子をスカウトする仕事です。成績はよかったですね(笑)。女の子を供給するというのは、水商売ではある意味一番要の大切な仕事です。でもこれは一番てっとりばやくお金を稼げる仕事だと思って、方法論のプロセスとして割り切ってやってました。

お金を貯めてから改めて専門学校を選ぶ時に、当時の美容専門学校は最初に15万円くらいの学費だったので、そちらを選びました。美容が好きとかそんなのじゃなくて、食っていくための仕事にしようと決めたんです。どっちかというと美容学校にはあんまりいい印象はなかったんですけどね。暴走族時代にひどい交通事故に遭ってその後遺症もありましたし、技術を身につけて働こうと決めたんです。

美容師の世界は、ある程度努力して頑張れば、天才までになれなくても、秀才にはなれるんじゃないかと直感が思っていたことも大きいですね。いいお師匠さんについて勉強すれば、いずれは、店を構えて一国一城の主になれるというのもよかった。それで美容学校へ進みました。

美容学校ではどうでしたか?
「キショーイ!」
当時の美容専門学校は1年制、クラス30人中4人が男という時代です。美容学校の男は、案の定キショーイ(気持ち悪い)奴らでしたね(笑)。

中学高校と学校をさぼってばかりの子供でしたけど、昔から手先はすごく器用だったので、真剣にやれば技術は誰よりも上手かったです。だからあんまりがんばらなくても授業についていけました。模型作りも子供のときからすごく上手かったんです。こんなに綺麗によく作れるなあと感心されるレベルでした。

その後、大阪の有名美容室に就職されたそうですが、いかがでしたか?
「ブルドーザーで轢いたろか」
一生懸命頑張ったのは、むしろ卒業して美容室へ就職してからです。自分でも遊べるのは学生まで、と決めていましたからね。就職したお店は、当時大阪で5本の指に入るくらいのすごく有名なところでした。料金も高いし、厳しかった。スタッフは全員男性のみ。

代表の岩田先生が東京の人でしたから、スタッフみんなが標準語を喋ってるのも違和感ありましたね。僕は人より二年遅れて入りましたが、同い年や年下でも先にいる人間が先輩、しかもみんな標準語。むかつきました(笑)。屈辱と違和感の連続でしたよ。

一度なんて、ブルドーザーで先輩を轢く夢まで見ましたからね(笑)。「いつ先輩をしばいて(叩いて)辞めたろかー!」と毎日思っていた。元ヤンキーとしては結構大変だったんです(笑)。外見はすでに、オシャレ系になってましたけどね。結局5年弱そのお店でお世話になりました。

僕は、この世界に入って決めていたことがひとつあって、師匠は一人だけにしようと思っていたんです。僕は器用なので、いろいろな師匠についていろいろ学ぶという方法でも、そこそこは出来るはず。でも、そんな風に美味しいとこ取りするよりは、あえて不器用にやったほうが自分のためにいいと考えていたんです。

一人の師匠についたら、その店に骨を埋めるか、辞めたら独立する、その二つしか道はないと考えていました。ある意味、昔のヤンキー魂が生きているんですね。男が一度決めたら最後までそれをやり通す。言ったことは絶対やり通す。一度口にしたことは、言葉を発した時点ですべて責任があると感じてました。そして、イギリスへ行くために店を辞めました。

渡英はなぜ決心されたのでしょうか?
「史上最低のあほ」
店を辞めてイギリスに渡りました。美容師の名だたる人たちのルーツを探ると、みんなヴィダル・サッスーンへ辿り着く訳です。その人達と同じレベルまで達するには、海外へ出て勉強するしかないと思いました。それでイギリスのサッスーンの学校へ留学することに決めました。

行ってからが大変でした。僕はヤンキーでしたから(笑)、全く英語なんて勉強したことがない。向こうへ行ってからも、「いままでで最低の英語レベルの生徒」と言われて、先生も匙を投げるほどだった。学校側も、「あなたは別に自分で特別教師を雇ってもらって英語を特訓しなければ、とうてい美容うんぬんの話じゃない」という訳です。それで学校側と大揉め。英語の出来る先輩を通訳にして「そんなことは、入学案内には何も書いていない」と主張するんです。結局学校が折れて、学校側が特別に僕に個人教師をつけてくれました。

それからが戦いです。後にも先にもこんなに勉強したことはないという程に勉強しました。一時、外国人の顔を見るのも英語を聞くのもイヤだという拒否反応を起こして、部屋に閉じこもって辞書ばっかり読んでいた時期もあります。でもホームステイ先の女性が、喋らなければ上達しないと言って、僕を部屋から引っ張り出して、頻繁に喋って手伝ってくれたりして助けてもらいました。

そんな甲斐もあって、半年くらい経つと少しずつ喋れるようになりました。その後は、校から依頼されて、英語の出来ない後輩の専属通訳になったりして先生の授業を教えたりして、イギリスには2年間ほど滞在しました。

帰国されてから結婚にいたる訳ですよね?
「ほんま、ひともんちゃくありました。」
そんな時、大阪時代の彼女が急にロンドンまでやってきた。ほんと急に、何の前触れもなく。

で、また何の前触れもなく彼女に子供が出来るんですよね(笑)。それですぐに帰国です。伊丹空港で初めて彼女の両親に会いました。

帰国後は、どこかのサロンへ行かれましたか?
「正直にいえばいいもんやなかったんや。」
帰国して結婚、そして父になるんですから、働かなければいけません。何軒かの美容室へも面接に行きました。面接の最後に「私たちの店について何か思うことがあれば、正直に言ってもらえませんか?」訊かれたので、ホント正直に「美容師にも個性が必要なのに、スタッフが制服を着ているのはよくない」っていったのです。

もちろん不採用です。

ロンドンでは、自分で主張して売り込み、自分の考えをはっきり言うというようにしないと生きていけなかったものですから。まあこっちも、ロンドン帰りでサッスーンのスタッフともみんな友達なんだよ、てな感じで鼻息が荒かっただけなのかもしれませんが(笑)。

その後独立して、「遊人」が誕生する訳ですね。
「なんでマスターやねん。」
と言う訳で、独立です。誰も雇ってくれない以上、そうするしかありません(笑)。妻の両親も「そこまで勉強してるんだから、今さら人に使われないで、独立しろ」と応援してくれました。折しもバブルが始まった時代で、お金を出資してくださる人もいました。

記念すべき一店目は、大阪でもかなりディープな、天王寺の裏あたりの寺田町という場所。隣が豆腐屋さん、斜め前が銭湯でした(笑)。オシャレとかアートとほど遠く、かなりボロボロなところでした。

「なんでロンドン帰りの俺が!」という気分でしたけど、背に腹は代えられません。雪駄履いたおばちゃんが来て、「マスター」とか呼ばれるようなところでした(笑)。

でも、内装は無茶無茶とんがってました。店のウインドウに、マネキンが10体くらい並んでいて、それがみんなティエリー・ミュグレとか着ている(笑)。しかも店内全面鏡張り。洋服屋さんと思われていたみたいですね。

店の名前は、「遊人」としました。まず、遊び心をもった人に来て欲しい。それと今までに僕が会った人の中で「天才だ!」と思った美容師ユイジン・ソレイマンという人の名前からもいただいています。彼が無名時代にその作品を見て、凄く刺激を受けたものですから。そして日本語にもこだわりかった。日本人としてロンドンにいて、すごく自分のナショナリティーを考えたことも影響しています。

すごい高飛車な店です。お客様に希望を訊くのではなく、「これが似合います」とおまかせにさせてもらってました。だからうちのサロンへ来る時は、おしゃれして来てくださいとお願いしてました。「雪駄なんか履いてこないように(笑)。ファッションを見ながら顔を見ながら、その人に合う髪型を考えますから」と。噂は噂を呼び、いろいろな所からお客様が集まってきてくださいました。3年後には借金も全部返済できました。


その後、遊人3店舗・ライカレへと発展していかれます。
お店作りで心がけていらっしゃるのはどんな点でしょう?
「次は一等地にいくぜ!心斎橋」
心斎橋で3店舗持ちました。どれも50坪以下のお店はなく、大箱スタイルのお店です。そして、4店舗目の「ライカレ」。

ただ、3店舗の「遊人」は若い人向けとして、「遊人」とは異なったブランドの4店舗目「ライカレ」は、大人も来れるお店にしたいと思いました。

最近、30代40代の人が気持ちよく遊べる空間がないですよね? 「ライカレ」では、自分たちと一緒に年齢を重ねていくお客様たちに居心地のいい空間を提供したいと思ってます。

波瀾万丈の伊勢田さんの人生の中での出会いを3つ挙げるとしたら?
「元やくざで宗教家の"漫画のおっちゃん"との出会い」
一人は、僕の最初の師匠。元やくざで宗教家で…、謎の人(笑)。美容学校時代によく行く喫茶店で、いつも漫画を読んでいるから「漫画のおっちゃん」と呼ばれていました。ヤクザの誰もが知っているような人で、ヤクザの親分に呼ばれて組に入れと刀で脅された時の傷を持ってて、それでいてまともな工場も立ち上げて、それも人にあげてしまったような人。

僕が「お金持ちになりたい」っていったら、「おまえは持って生まれたものが優しすぎるから無理や、人から愛される人間になりなさい」って言われました。おまえには非道な金儲けは絶対無理っていって。相手の根底を見抜く人でしたね。すごく影響されました。生き様とか、言うことなんかね。破天荒だけど実は計算されている人でした。

ハングライダースクールを始めて、結局ハングライダーの事故で死んでしまった。空で死にたいって、日頃から言ってたから、あの人らしい死に方やなあって、みんなが納得した。一瞬に駆け抜けて死んでしまった人です。もっといろいろなことを相談したり教えてもらいたかったですね。

そして二人目は、最初に拾ってくれた美容室のお師匠さん、そしてさっき言ったユイジンさんとの出会いが大きいですね。

最後に、伊勢田さんは十年後はどんな夢を持っていますか?
「一緒にやってきた人らと白髪になるまでやっていきたい」
十年後は、ハサミは持ってないと思いますね。いま、これまで一緒に進んできた人たちとどこまで白髪になるまでやっていけるかという方向を模索してます。

いままで、決して一人で大きくなってたのではなく、いろいろな人と一緒にやってきた訳ですからね。

「国が民を得てそのもとを成す」という言葉があるんですが、従業員がいるから社長。従業員なしに社長なんてありえないと思います。これまで心血注いで、汗と涙を流して一緒にやってきた人と一緒に進んでいける方向を模索していきたいですね。


取材・文/マオマオネット編集部

Yutaka Iseda's Works

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伊勢田 穣 YUTAKA ISEDA
URL:http://laicale.jp/
e-mail: info@laicale.jp

1983年 東亜美容学校卒業後、関西の某サロンにて5年間勤務
1988年 渡英。ヴィダル・サッスーン、TONY&GUY、トレバー・ソルビーの
     
スクール卒業後、同アカデミーにて通訳として1年半勤務
1990年 帰国後、遊人 アクセス設立
1994年 アメリカ村に、有限会社 遊人 アトリエ OPEN
1998年 心斎橋に、有限会社 遊人 アナザーワールド OPEN
2000年 デザインオフィス 有限会社F・I・D 設立
2001年 梅田に、遊人 エイ・レべル OPEN
2002年 アメリカ村に、ライカレ OPEN。

現在4店舗のオーナー兼ディレクターとしてスタッフを統括するかたわら、全国的なセミナー、HAIR SHOW、業界紙、一般紙、テレビ出演など多数手がける。そして有限会社F・I・Dを通じて、サロンで必要とされるアイテムやITプログラムなども作成。全国に発信している。


ライカレ
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遊 人
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アナザーワールド
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