UP DATE:2003.07.01
 
さまざまな世界で活躍するクリエーターに、昔の自分、今の自分、そしてこれからの自分のお話を伺います。子どもの頃はどんなだった? どうして今の仕事を選んだの? これからどんなことするの? いろいろな方向からお話を聞くミニ自叙伝的インタビューです。

マオマオネット インタビュー第32弾
画家
寺門孝之
Takayuki Terakado
寺門孝之さんの作品は、書店に並んだ数々の本の装丁画、テレビドラマ「天使のお仕事」タイトル画、フェリシモのお届けボックスの装画、女性誌の挿絵などできっと見かけた事があるはず。浮遊感のある天使のシリーズは、見る人をやさしい気持ちにさせてくれます。この7月には新しい画集『DREAM DREAM』が発売されると共に、原宿で発売記念の展覧会も開催されます。いつか夢でみたような、不思議なおとぎ話の中に入り込んだかのような寺門さんの独特の世界は、どのように形成されたのでしょうか? そんな寺門さんの現在・過去・未来についてお話を伺いました。

小さい頃のお話をお聞かせ願えますか?
自分で勝手に想像した動物を描いていた幼少時代
生まれたのは、名古屋です。3歳の時から神戸へ移り、大学卒業まで過ごしました。幼少時代は、一人っ子で体が弱い子供でした。両親も絵が好きだったので、小さいときから家に画集がたくさんありました。それをよく見て過ごしていました。野球とかにもあこがれるのですが、かなり下手で相手にしてもらえなくて。だから一人で家で絵を描いたり、図鑑を見るのが好きだったようです。特に動物図鑑が好きで、自分で勝手に想像した動物を描いたりしていました。いまで言えばポケモンみたいな動物です(笑)。

 

その頃は何になりたいと思っていましたか?
図鑑のように細かい緻密な絵を描いていた小学生

「色色な鳥」
子供の頃の絵
小学生の頃は、生物学者になりたいと思っていました。絶滅しそうな動物を護るようなこととか。絵は好きだったので小学校3〜4年くらいのときにお絵かき教室へ通いますが、帰り道に暗いところを歩くのが怖くてやめてしまいました。かなりの弱虫でした(笑)。その頃は、やっぱり怪獣を描いていたようです。家では絵を褒めてもらえますが、図画の成績はあまりよくなっかたみたいです。あまり細かく描くので子供らしくないといわれてたようです。どうも、誰かに手伝って描いてもらったのでは、と先生に疑われていたらしくて、それを聞いて親は憤慨したそうですが。

 

高校時代に熱中した事は何でしょう?
大林宣彦監督の自主映画がきっかけで自主映画制作に
高校はどちらかというと進学校でしたが、映画研究部に入って、そこでずっと8mm映画をつくっていました。自主制作の映画をつくりだしたのは、大林宣彦監督の自主映画『いつかみたドラキュラ』がきっかけです。衝撃を受けました。いままで見ていた映画とまるで違うものでした。ストーリーらしいものもなく、編集、その他すべてが衝撃的で、こんなものがあったのかと、映画の魅力に見入られてしまいました。それで物事の見方を大幅に変えたかもしれません。いままで絵を描いていたような感じで、自分でも映画をつくれるのでは?と思い始めました。これが自分の進む道だと思って、大学に入ってもずっと8mm映画を続けていました。僕は、主に脚本と編集を担当していました。

 

大学はしかし工学部に進学されましたが?
大学自体に興味がなくなりました(笑)
芸術方面の大学に進みたいと思ったのが遅くて、なんとなく理系のクラスに入ってたのでそのままあまり何も考えずに、名前に引かれて大学も環境工学科へ入ってしまったのです。
両親に芸術系に行きたいと打ち明けもしたのですが、あまりいい顔はしませんでした。芸術はたしなむもので職業にするものでないとか、大学は友達との出会いの場所でもあるから幅広い人がいる総合大学がいいとか、いわれました。ほんとは、「いい大学に入っていい会社に入って」といった一般的な理由からだと今は思いますけれど。僕自身、大学に入ってから何を学ぶのかということについて本当に何も自覚してなかったと思います。

それで入学直後のオリエンテーションに行って、そのときに大学自体に興味がなくなりました(笑)。そして、かっこいいお姉さんに誘われて学内の演劇サークルというか劇団に入りました。で、大学生活というよりも劇団の「テント生活」が始まってしまいました。

 

工学部から文学部へ転籍されたそうですね。
卒業したら絵の勉強がしたい
8mm映画は、相変わらず高校の仲間とつくっていました。大学自体にはすでに興味はありませんでした。劇団の先輩たちに文学部美学科の人がいて、そこの木村重信先生のゼミがおもしろいと聞いて、僕は工学部なのですが、勝手に文学部の講義を履修するようになりました。その後3年生の時に、文学部美学科へ転籍。卒論は、ドイツロマン派の画家ルンゲの切り絵についてでした。ただ美学といっても、研究であって実際に実技をするわけではありません。個人的に、宇野亜喜良さんや伊坂芳太良さんに憧れて細かいペン画みたいな絵を描いていました。映画や演劇についても、次第になんだか挫折みたいになっていって、なにか一人で出来る芸を身につけたいと強く思うようになりました。

で、子供の頃から好きだった絵を真剣に考え始めました。このまま卒業して就職するなんてとても考えられませんでした。3年の終わり頃に単位を計算したら、4年生の最後の一年をがんばれば卒業できることがわかり、親と話して、「卒業したら東京へ行って絵の勉強がしたい」と頼みました。

 

卒業後、どうしてセツ・モードセミナーを選ばれたのでしょう?
圧倒的にセツモードセミナーがかっこよかった!
映画を作っていたときに、時々東京には行ってました。当時、おもしろい事はすべて東京で起こっているように思えたのですね。もう大学は卒業している訳ですから、とにかく絵だけを描きたい、学びたいと思っていました。なので美術大学とかではなく、専門学校を中心に回って見学しました。

その中で圧倒的に、セツモードセミナーがかっこよかったし、おもしろかったんです。説明を受けにいくと、受付に美青年がいて、「少しお待ちください」というのです。何をするのかなと思ったら、優雅にナイフで鉛筆を数本、一本一本丁寧に削るのです。それが終わると「はい、なんでしょうか?」と。ここでは人を待たせて鉛筆を削るのが当たり前な上に、またその仕草や雰囲気も美しく優雅なのです。ここにはこれまで僕が知らずにいた何かがあるにちがいない!と魅せられたのです。それで迷わずセツに決めました。

 

セツではどんな風でしたか?
自分が正しい場所にいる! と思った
セツに入った初日のことは、すごくよく覚えています。セツ先生は「これからみんなは『美』を中心とした生活を始めていくのです」と初日に言われました。僕にはその言葉の意味がまだよくわかりませんでしたが、生まれて初めて、自分が正しい場所にいる! と思ったのです。それまではいつも何か違う、違うと思い続けていたのです。セツ先生やここの仲間と一緒にこの空間を共有している事にすごく喜びがこみあげてきました。ようやくいま僕の人生が始まったという感じでした。

セツでは、延々同じ事を繰り返します。モデルさんが来て、それをクロッキーする。あるいは水彩で描く、そんな毎日です。時おりセツ先生が絵を見てくれる、合評会があります。先生はいつも僕達といっしょにクロッキーを描かれたりしますが、特に何かを教えてもらうということはない。でも、セツに行ってると、日々何かを発見せざるを得ないという感じでした。

 

セツでの評価はいかがでしたか?
ことごとくセツ先生から否定されていきます

「赤いヤカン」
セツで初めて誉められた
最初の合評会の時、「この絵を描いたのは、だれだ?」とセツ先生がみんなに聞きました。それは僕の絵だった。褒められるのかと思っていたら、「おまえはカメラか何か覗くようなことをしていたのか?」といわれました。まさに映画をやっていたのでそれもびっくりでしたが、「こんな風な切り取ったような絵は、絵としては、下品だ!」とまでいわれて、すごくショックを受けました。自分がいままで絵だと思っていたものが、何か違うんだなとなんとなく感じました。

その後もことごとく、セツ先生から否定されていきます。それでもう何を描いていいのかよくわからなくなってきました。卒業まぎわになっても何を描いていいかわからず、下宿でガスにヤカンをかけているところやハサミなど、とにかく身の回りのものを描いてみたのです。それをセツ先生に初めて褒めてもらいました。「これは、絵になってきているぞ!」と。それで自分でも何となくわかってきたみたいです。描きたい絵が浮かぶようになり、段々学校の中でも評価を得られるようになっていきました。

 

その後イラストレーターになられた経緯は?
何となく神様のお告げで
セツには夜通っていました。当初はバイトなどしていたのですが、辞めてしまい、日中も布団から出ないようなひどい生活になっていきました。セツでも絵がうまくいかないし、ああこのままだめになっていくなあと思いつつ、ある昼間ぼーとしていたら、神様のお告げだったのでしょうか、耳元で「新聞を買ってこい」と聞こえたような気がしました。そして本当に買いに行って求人欄をみたら、「イラストレーター募集、経験不問」とある。「経験不問」とは珍しいなあと思い、連絡をとりました。それがコンピュータを使って絵を描く仕事で、画材が新しいため「経験不問」だということでした。面接に行って採用され、すぐに働くことになりました。

コンピュータグラフィックスが、ほんとに初期の頃です。やっていくうちにどんどん進歩していく時代で、まるで一週間ごとに技術が新しくなっていくような感じでした。そこには約3年間在籍しましたが、セツとはある意味正反対のことでしたが、本当に勉強になりました。デジタルの限られた環境ではありましたが、一応プロとしてイラストを描いているという事も、自分にとってはプラスでした。

 

その後仕事と作品の比重はどんなだったのでしょう?
コンピュータも、イラストも

「男の磯」
日本グラフィック展大賞時に落選した方の作品
ちょうどそのコンピュータの仕事を始めてから2年目、85年に日本グラフィック展で大賞をいただきました。受賞したのは、コンピュータでのものではなく、セツで描いていた水彩画の延長です。それから少しずつですが、イラストとか壁画の仕事のオーダーが入るようになりました。

その段階でもうコンピュータはやめるという選択肢も考えましたが、俄然コンピュータの世界もおもしろくなったきていた時期でしたので、それはそれで続けていきます。個人でもパソコンで絵を作る環境を揃えられるようになった頃に会社をやめましたが、それ以降もコンピュータで絵を描くことにはいっそうのめりこんでいきました。
その頃、売り込みなどでお会いするアートディレクターの人たちに、絵の具で描いた絵とコンピュータで描いた絵を一緒に見せましたが、コンピュータで描いた絵の方はまだ全然評価されませんでした。まだその頃は全体的にコンピュータに対していい印象はなかったようですね。

ただ、僕はこのコンピュータの世界にすごく未来を感じていたし、かなりのめりこんでいきました。手描きとコンピュータとを混ぜていく工夫をしたり、色々なアウトプットの実験もしました。徐々に時代もコンピュータによるアートを受け入れる土壌ができてきて、コンピュータによるイラストやCFや映像作品、舞台美術など、仕事が広がっていきました。その数年後にMacintoshが普及して、デザインやアートの領域でのコンピュータが大きく認知され、時代は変わりましたが、逆に、僕はその頃にはコンピュータで描く事をやめてしまったのです。

 

魅力を感じていたコンピュータをやめてしまった理由はなんでしょう?
絵を描くリハビリだと思って神戸へ戻りました

「アトリエ風景」
1994年、天使を描き始めた頃のアトリエ

コンピュータにのめりこみすぎて、コンピュータなしに絵が描けなくなってしまったのです。コンピュータを使う方が、より自分の思い浮かぶ絵を具現することが可能でした。セツで身につけた水彩の手法だけでは、思い描く理想の絵が実現しきれなくて、段々、手で絵を描くのが怖くなってしまったのです。いろいろ悩んだあげく、絵を描くリハビリだと思って神戸へ仕事場を移しました。


そこでもう一度、一から絵を描こうと思いました。92年の頃です。ちょっとリハビリのつもりで戻った神戸でしたが、あっという間にもう10年にもなってしまいました。神戸でいろいろな絵を描いてきてやっとこのところ、コンピュータで当時描きかけていた絵、世界を、今度は手で描く事ができるようになってきたと思います。時間はかかりましたが、「絵を描く歓び」は完全に復活したし、それを守るすべも身についたような気がします。

神戸に移ったのがきっかけになってイラストレーションの仕事よりも、展覧会で絵を発表し、絵を売って生きていくようになってきました。今後はどうなっていくのかわかりませんが、これまで以上に、より自由に絵が描けたら嬉しいです。

 

最後に、10年後には何をしていたいですか?
北斎のように森羅万象を自由に描ける画家になりたい

「闇の妹/龍の雫」
今夢中の「闇の妹」シリーズ
絵を描いていますかね、やっぱり。だんだん自由になって、描きたい絵が描けてきているので、今思い浮かんでいる絵を全部描いてしまってすっきりしたいですね。そうしたらまた次の事が始まるように思います。

いま42歳ですが、僕は40代をある程度意識化された20代として生きられたらと考えています。新しい出会いや勉強の時代になればと。そして次の50代には、その成果が少しは刈り取れる時代になるといいのかな、そんな風に考えています。あこがれとしては、晩年の北斎のように森羅万象を自由に描ける画家になって、70、80歳くらいで自分の画業の最前線にでれれば幸せかなと思いますね。

 

Takayuki Terakado's Work

画集『DREAM DREAM』より(2,500円、ブルース・インターアクションズ刊)

Copyright (C) 2003 Takayuki Terakado All rights reserved.

 


画 家
○寺門孝之  Takayuki Terakado

寺門孝之web:てらぴかのえんがわ http://www.terapika.com/

1961年2月10日名古屋市生まれ。3才より神戸に育つ。大阪大学工学部環境工学科入学、転部により、同大学文学部美学科卒業。セツ・モードセミナー卒業。1986年よりフリー。1985年、日本グラフィック展大賞受賞。神戸市在住。著書に『かごめドリーム ツル/カメ』、『天使ブック』、『天使のカレンダー』など多数。自著の他、『権現の踊り子』や『きれぎれ』、『鏡を見てはいけません』など町田康、田辺聖子の一連作品のほか、『家内安全/夏石鈴子著』『万引き変愛記/ねじめ正一著』『ある愛の詩/山下久美子著』など話題書の装画も数々手がける。また本以外にも劇団東京ヴォードヴィルショー、楽市楽座、松山バレエ団などの公演ポスター、フェリシモ・グッズにも作品を描き下ろすなど、幅広く活動している。2003年7月、画集『DREAM DREAM』(2,500円、ブルース・インターアクションズ刊)を発表。詳しくは、制作状況やエッセイ、情報も読むことのできる著者HPへ。

■7月には寺門孝之絵画展「DREAM DREAM」が原宿・LAPNET SHIPで開催されます。
2003年7月17日(木)〜7月28日(月)11:00am〜9:00pm
http://www.mao2.net/event/index.html