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東京はすでに桜も終わっているようだが、北海道はこれから。ここ十勝の桜の開花は例年だとゴールデンウィーク明け。でも今年は4月下旬には咲きそう。
郊外の雪解けも一段と進み、真っ白だった畑も赤い土、黒い土、そして小麦を植えたところは緑とさまざまな色を楽しませてくれるようになった。寒く、長い冬があるからこそ春の到来が嬉しい。
某小学生が「雪が解けると何になる」という問題に「春になる」と答えて×にされたという有名な話があるが、季節感こそが「生」を感じる原点だと思う。植物も動物も、そして私たち人間も含め、まさに命の目覚めの季節である。でも目覚めの時なのに、春はやたら眠いのは何故だろう。「春眠暁を覚えず」という言葉まであるが、毎日のことであっても、また1年というサイクルであっても、いずれにしても寝起きは辛いということだろう。あなたは寝起き大丈夫?
今回は「十勝の農業を活かした新しい観光」についてを書こうと思っていたが、国会議員についてマスコミから流れてくる情報があまりにも頭にくるので先にそのことについて書かせてもらうことにした。
辻元議員のやったことがどうなのか、鈴木議員、さらには加藤議員のやったことがどうなのかは私も含めそれぞれ自分で判断したらいい。
私が頭にきているのは正直者が馬鹿をみることに誰も文句をつけていないことだ。
今回の件で問題にすべきことは、国会議員をやる上において「やっていいこと」と「やってはいけないこと」があるということであり、3人ともその「やってはいけないこと」をやったということだ。しかしその内容は全く性質の異なるものだということも誰もが知っているはず。
第1回目にも「知っている」ことに満足しているのがやばいということを書いたが、今回の件で、マスコミも私たちも過度の「情報肥満」に陥っていることがさらに明確になった。
自分の身体を動かさずに、自分の頭で考えることもなく、テレビ・新聞・週刊誌等からの情報をひたすら貪り続ける。内容はどうでもいい、とにかく常に情報を得ていないと満足できない。というか、不安になってくる。「質」のことをどうこう言っている余裕はなく、ただただ「量」を追い求める。
バランスの悪い食事を摂りつづけていると身体は病む、そしてバランスの悪い情報を取りつづけると心が病む、と俺は思う。皆は大丈夫だろうか。バランスの良い情報摂取をしているだろうか。ぜひこの機会に考えてみて欲しい。
話は元に戻るが、「正直に答える」ことで問題が大きくなってしまった人と、「正直に答えない」ことで問題が大きくなってしまった人を同じ土俵で語っていることに皆は疑問を感じないのか。
誠実だとか、正直だというのは、今の日本には必要ないのか。正義とは何か。マスコミは何をしているのか。レポーターやらジャーナリストという人はどんな覚悟と情報を持って質問しているのか。自分たちが裁く対象を捜し求め、暴く内容を捜し求めているだけではないのか。覚悟のない「正義」を振りかざしながら…。この風潮は、情報肥満の先進国である米国から来たものだろう。しかし、その米国もこれについては後悔と反省をしているようである。
ところが日本には何でもかんでも米国に見習えという風潮がある。小泉首相にもその傾向がありそうだが、何も裁判をビジネスやゲームにすることまで真似なくてもいい。
実際にはやっていても弁護士の手腕で「無罪」になる。いちゃもんみたいだなと思うことが弁護士の手腕で「有罪」になり、多額の賠償金を払わされる。悪いものは悪い。良いものは良い。悪いことをしたら叱られるし、罰も受ける。良いことをしたら褒められる。嘘をつくことは罪であり「泥棒の始まり」ということをつい数年前までは言ってきたはずなのに、今は「うまく嘘をついたやつが勝ち」なのか。
「記憶にありません」というのは「正直に答えるとやばいし、嘘をつくこともできないので」と言っているように私の耳には聞こえるのだが、皆の耳にはどう聞こえるのだろう。
一般社会の中でそんなことが通用するのか。学校や会社で、失敗をやらかしたり問題を起こした時に「記憶にない」で済ませてくれるのか。黙秘権というのがあるが、「だんまり」を決め込んでいたら罪を逃れられるのか。そのまま時が過ぎ、皆の興味が逸れるまで、次の事件が起るまで静かにしていればいいのか。そのうち忘れてくれるのか。
そんなことはない、と言いたいが、国会議員の問題は常にそうであったように思う。それは俺たちが「情報肥満」になっているからではないか。
大岡越前やら遠山の金さんやら、日本には昔から「お裁き」というものがあった。人を裁くこともするが、その裁きは罪の中に隠れている問題そのものを解決するために行われていた。その問題とは当人だけのことではない。
今回の3人の国会議員の問題も、3人に限ったことではないと皆が思っている。法律に抵触するしないだけが問題ではないはずだ。「同じようなことを誰もがやっている」「たまたま運が悪かっただけ」「交通事故みたいなもんだな」「もっとうまくやらなきゃ」といった裏の声も耳にするが、国会議員という職そのものが抱えている根本的な問題の解決を今回もこれまでと同じように個人の裁きをもって先送りにしようとしているし、私たちもまんまとその手に乗せられている。
国会でやりとりされている問題は国の問題であり、私たち国民の問題である。どうなるかを見ているのではなく、自分ならどうするか、どうしたいかを考えることが必要だ。
国会はプロレスでもボクシングでもK1でもない。国会議員は国会というリングでバトルをやるためのレスラーではない。国づくりの議論の場が見世物になり、国会議員も自ずと見世物になっている。情けないがそれが現実である。国会議員自らがそれを望んでいるようにすら見える。
明治維新は、新しい国づくりを本気で志した数名の若者によって成し遂げられた。新しい国づくりは常に新しい人たちによって行われる。そして日本は今、新しい国づくりを必要としている。
そろそろ慢性的な「情報肥満」から脱けだし、今やれること、自分でやれることをやっていこうや。かなり大げさだけど、それぞれの場から新しい国づくりをやっていこうや。本気になろうや。もちろん俺も、十勝から新たな国づくりをやっていく。
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