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4月は入学、入社の月。学校にいる人も、会社いる人も、それぞれの気持ちを一新し、一段と厳しさを増す時代に向けて気合を入れ直しているところだろう。この4月スタートが日本の常識。でも海外では決して当たり前のことではない。欧米の学校は基本的には秋にスタートし春に卒業。何故だろう? ちなみに企業は1月スタート12月決算が多いようだ。
学者ではないので本当のところはわからないが、自然に対する考え方の差が大きな要因ではないかと思う。簡単に言うと、欧米人にとっての自然は征服する対象であり、日本人にとっての自然は共生する対象であるということ。山や海の豊かな恵みを与えてくれる自然(季節)は遠い昔から日本人にとって感謝するべき対象であった。
厳しい「冬」の始まりである「秋」に自然との闘いの1年が始まり、そして「春」という勝利を得て1年が終わるのが欧米。新たな恵みを与えてくれる「春」の到来とともに1年が始まり、「秋」からは蓄えた恵みに感謝しつつ耐えつづけ、「冬」の終わりとともに1年が終わるのが日本。だから日本は4月スタートだというのが私の考えであり、この4月スタートという独自の文化は今後も大切にしていかなきゃならんと思う。
俺がここで言いたいのは日本と欧米は異なる文化や歴史を持っているということであり、何でもかんでも真似するべきでないということ。これについては「第3回:情報肥満からの脱却」にも書いたが、いいものは真似たらいいが、その判断をするのはメディアでも、評論家や大学の先生ではなく、あくまでも自分だ。
ユニバーサルデザインにも同じことが言えると俺は思っている。バリアフリーと混同されることが多いが同じものではない。バリアフリーは、1970年代に建築用語として登場し、物理的・心理的・社会的な障害を除去する意味へと拡がっていった。
その後、高齢者や障害者にやさしい商品やサービスは、すなわち誰にとっても優しいものであるということから、その「普遍性」を強調した概念として「ユニバーサルデザイン」という言葉が誕生した。ユニバーサルデザインはサービスや商品に対するものであり、それらによってバリアフリーな社会が実現できるのである。
1980年に米国ノースカロライナ州立大学のロナルド・メイスは「できる限り多くの人が利用可能であるように製品、建物、空間をデザインする」というユニバーサルデザインを提唱した。彼自身が身体的な障害を持っていたこともユニバーサルデザインの誕生に大きく関係している。
ユニバーサルデザインはとても素晴らしい概念である。ただ、それを解釈し、表現する過程で誤解が生じていると俺は思う。実際、デザインやまちづくりといった具体的な行動をとるなかで、「ユニバーサルデザイン」が逆に不自由な状況が生み、余計な規制をかけてしまうということが起っている。
例えば、インテリアショップではカラフルでポップな椅子が安く手に入るので、それにタイヤをつけただけの車椅子を欲しいという人がいたとする。しかし、この車付きの椅子は「ユニバーサルデザイン」とはいえないだろう。それは「△○症の人には使えても、○□症の人には使えない」といったことが問題になるからだ。
「ユニバーサルデザイン」の解釈自体が確立していないことが大きな問題だと思うが、文化も歴史も異なる米国で生まれた概念だということをまず理解する必要がある。何が違うかというと「責任」と「権利」に対する考え方。従って、そのまま日本に持ち込んでも無理が生じるのは当たり前のこと。この素晴らしい考え方を日本なりにどう理解していくかがこれからの課題だと俺は思う。
解釈の問題だけではなく、「ユニバーサルデザイン」が建築基準法のような一種のルールになってしまい、本来的な役割をなさなくなることも考えられる。車椅子用のスロープを作ったから障害者対策ができたと言い、そのスロープが急であったり、長すぎる(途中に休憩する場もない)ことが問題であることに気づかない。
条例を作ったことで安心してしまい、条例に合致しているか否かだけを問題にし、それ以上のことをしなくなる。(考えなくなる。)これはとても無責任な状況と言えるが、自分の周りを見てみると確かにそういったことが起っていることに気づく。
全ての人に使いやすい・優しいという言葉を使っているうちに、対象者である個、主張している個、決定している個の責任が不明確になり、誰も責任をとらない、もしくはとれなくなっている。現実に起こっているこうしたことに直面すると、「ユニバーサルデザイン」の概念(現時点での理解)だけではどうしても無理が生じてしまうことが分かる。
そこで登場した、というか登場させたのが「ハッピーデザイン」。日本においてユニバーサルデザインを補完する新たな概念として必要なものだと俺は考えている。「ハッピーデザイン」についての話は次の回で。
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